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ゴダールの「兎と亀」にまつわる物語
確か信州から東京に帰る日だったと思う。松本に出て街中を歩いていたときに、先生がフっと立ち止まったのだ。先生はかなり痩せて頬がこけ落ちた瀕死の司馬遼太郎というか、水木しげるの書くガイコツキャラのような顔なのだが、酔っ払っていないノーマルモードの時は、じつにすこやかでやさしげな表情で、いかにも精神科医といった声の肌理を持って空気を振るわせる。そんなちょっと高く澄んだ声で「私が学生の時によく行ったジャズ喫茶があるから行ってみましょうよ」と、言った。お気に入りの口笛の一小節でも吹くかのように。
ちょっと前には先生が通っていた信州大学の医学部の寄宿舎の話を聞き、フェンス越しに大学を見てきたところだから、流れとしては悪くない。「もう無くなってしまったもかもしれません・・・」と悲しそうにつぶやく先生についていく。繁華街の裏通りに入り、フィリピンパブの女の子の写真なんかを横目で見つつ、そぞろ歩いていると「あった、あった、ありました。まだ残ってました!!」という先生のうれしそうな声。
かなり古くてボロいビルの入り口に、これまた小さくてボロい看板が出ている。店の名前は忘れてしまった。薄暗い階段を上るたびにくぐもった低音がゆっくりと僕らの耳や体を浸していき、扉を開けた瞬間に、その洪水があたりを駆け巡った。かなりの爆音が小さな店にあるこれまたバカでかいスピーカーから容赦なく注ぎ込まれ、あふれかえっている。客はサラシーマン風のおじさんが一人。しかもそのおじさんはずーーーーっと、手をあごに乗せた姿勢で目を閉じ、ジャズに集注して聞いているのか、ピクリともしない。事前に先生から説明を受けたのだが、そのおじさんがいるスピーカーの前は「会話禁止エリア」であって、会話をしてはいけないのである。
先生はなじみの店が残っていてかなりうれしいのかホクホク、ゆでたてのサツマイモにかじりつくような勢いで席に座ると、さっそくウォッカか何かを注文し、僕はそれについてきたピスタチオをつまんでごまかすことにした。先生は学生時代いつもここにきてジャスを聞いていたらしい。フイに立ち上がると、どこからか本を一冊持ってきて、僕に見せてくれた。
「これなんですよ。僕が高校生の時にずーっと、ここで読んでいたのは」
と、先生は言った。タイトルは「倫敦巴里」(ロンドンパリ)イラストレーター和田誠の書いたもので、66年から77年まで「話の特集」に載せていた連載を単行本にまとめたものだった。この連載、簡単に言ってしまえば一種のパロディの集大成で、たとえば冒頭には当時相当な部数を誇っていた消費者啓蒙雑誌の「暮らしの手帳」をパロった「殺しの手帳」から始まる。これまたこの雑誌のデザイナー、兼、編集者であった花森安治のスタイルを絵からテクストまで全部ちゃんとぱろっているからすばらしい。ちなみに「暮らしの手帳」と花森については「spectator」のちょっと前の号で特集が組まれているから目を通してほしい。記事を書いたのはあの「クイックジャパン」の創始者の赤田祐一だったと思う。
ちなみに、僕がかなり長い批評を書いた吉永 嘉明の「自殺されちゃった僕」という本も飛鳥新社から出ていて、赤田さんが編集者だったと思うし、作中に出てきて吉永さんを励ましていたいたような気がする。ちなみに僕はこの女の子の友人つてに「最近のサブカルは以前のように面白くもないしひどい状態になってしまった。あなたはこの現状をどう思っているのか?」と赤田氏に聞いてもらったのだが、返事は「関係ないし、どうでもいい」というようなものだった。
吉永さんに本を書くようにすすめたのはどうやら赤田氏らしいし、600万円も自費を負担してはじめたクイックジャパンのこともあるのだから、もうちょっとサブカルチャーというシーンに対して気を使っているのかな?と思ってたんだけれど・・・・どうなんだろう?まあ、このことはよくわからないことが多いのでおいておこう。
さて、その和田誠の本は60年代カルチャーを知る上で本当にすばらしい本で、当時の文学、漫画、絵画、政情、風俗をあますことなく横断的にパロったスタイルは今読んでも非常にキレててすごいと思う。これを読むと古谷兎丸の「パレポリ」が味気なく思えるからスゴイ。ただ、本人が「これは時流にあやかったパロディだからいずれわからなくなる」と書いているように僕にも何をネタにパロったかさっぱりわからないものも多い。たとえばこれは同時代のつげ義春の漫画なのだが、確か温泉もので「オンドル小屋」の一夜をすごす主人公が若いバカな客によって散々な目にあうシーンがあった。このバカ騒ぎをする若い客が温泉に浮かんでいた巨大な男性器の張り方を股間からおったてて「大きいことはいいことだ!!」というコーラスをやるシーンがる。実はこの「大きいことはいいことだ」というのは当時流行ったCMの文句で、僕はそれを昭和全記録68年の、話題のCMコーナーで初めてしったのだ。
もちろん、こういった例は数知れないし、時代の空気や、雰囲気としてあっという間に消えていくものなのだと思う。手塚治の漫画にもこういった時事ネタ部分が多く、単行本化された時点で古くなったものが挿げ替えれられている。つまり、オリジナルなものではなくなっているというワケだ。もちろん、ある意味で改良されているわけでもあるのだが・・・・
まあ、こういった理由によって「倫敦巴里」をちゃんと読みこなすことは本当に難しいと思う。誰だったか忘れたけれど「今の若い人はテクストそのものではなく、行間、つまりテクストの暗黙のコンテクストを読む力がない」と言っていた。こういった時代の雰囲気や情景・・・・あっという間に消え去っていくようなモノのかすかな手触りの古さ・・・・を、僕たちは記憶と想像力によってどれだけ「再現」できるのだろう?「大きいことはいいことだ!!」というCMを普通に生活していて見たことの無い僕は、ある意味で100パーセントつげ義春の漫画を読みこなすことができないのだろうか・・・・・・・
話をもとに戻そう。
この和田さんの本の中に「雪国」をぱろったシリーズがあって非常に面白い。もちろん、当時川端康成がノーベル章を受賞したことによって始まったシリーズで、雪国の冒頭・・・・「国境の長いトンネルを抜けると・・・・」に始まる部分を著名な作家達が書いたらどうなるだろうか?という遊びで文体パロディをやるのである。これまた大江健三郎から村上龍、井上ひさし、五木寛之・・・と、著名な作家の似顔絵と彼、彼女が書いたらかくなるであろうという雪国によって成り立っている。またまたこれが読んでいれば読んでいる人にわかるパロディで、村上龍なんか最後に「ところでハシシュなんかないの?」と、駅長さんに女の子が聞いている部分なんかが笑える。はては、これまた「ねじ式」式というねじ式風の「雪国」まであって、これが絵がそっくりだからたまらない。
さてさて、僕はこれまた今度は世界の著名な映画監督がもし「ウ兎と亀」を撮影したらどんな配役でどんなシナリオになるのか?という「兎と亀」のパロディが大好きなのである。かんりうまくゴダールが表現されていて、とてもパロったとは思えない。うまいのでる。ジーンときてしまうのである。
ジャン・リュック・ゴダール
「兎と亀」
舗道に兎(アンナ。カリーナ)と亀(ジャン・ポール。ベルモント)がいる。
字幕 兎と亀が出会ったこと。
兎 「私のこと好き?」
亀 「好きだ」
兎 「耳が好き?」
亀 「好きだ」
兎 「毛皮も?」
亀 「好きだ」
字幕 競争すること
兎 「私がほしい?」
亀 「欲しい」
兎 「むこうの山のふもとまで駆けていって、あなたが先についたらあげるわ」
字幕 シートンの動物記
亀 「昔、野ばらにとげはなかった。ところが牛は角をぶつける。フクロネズミはしっぽで花をもぎとる、鹿はひづめで蹴落とす。野ばらは花を守るために痛いとげをいっぱいつけて、動物たちと仲良くしないことにした。だが、兎は野ばらを傷つけたことがなかったので、野ばらは兎だけは友達だと思っている。だから兎に危険が迫ったときは、野ばらのしげみに飛び込めば、野ばらが兎を守ってくれる」
亀、本を置く。
字幕 競争が終わってからのこと。
ベッドの上で兎を亀がもつれ合っている。
シーツが大きく揺れる。
亀の頭、クローズアップ。
兎の頭 クローズアップ。
兎の頭に亀の手が触れる。
亀 「わざと負けたのか?」
兎 「さあ?」
亀 「俺が気に入ったのかい?」
兎 「わからないわ」
字幕 明日は明日であること。
舗道に亀が一人で歩いている。
終
いやー すごいね。さすがゴダールの「兎と亀」って感じ。フランス映画だなあって思ったでしょ?あとはクロード・ルルーシュとかサム・ペキンパーとか黒澤明とかヒッチ・コックとかジョン・フォードとかそれぞれの「兎と亀」があって面白いんだよね。
最後にこの本はなんと絶版で僕もたまたま早稲田の古本屋で見つけたから持ってるだけなんだよねー だけどここで投票すれば復刊するかもしれないので、よろしくー
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=10471
- ∞+∞=∞
- By ∞+∞=∞ / Apr 17, 2005 1:51 pm
ROCK IS・・・・
美術手帳1970年10月号特集 「ROCK IS・・・ 原始性への回帰 日向あき子」より抜粋。
ロック共和国。
それはロックの響きが流れるところに生まれる。ロックにしびれる世代が作る無形のコミュニティーである。ジャズから来たこの音楽は、国の垣根を取り払い、霊妙な魔力でもって若い層の心をひとつにする。
ロック世代。彼らは知覚の充足の中に神々の国が宿ることをフィーリングによって知っている。彼らの祖先はには、カミュの自然人ムルソーがいる。「ボニーとクライド」やコクトーのアンファンテリブルがいる。
あるいはむしろ、彼らは文明の中の憂鬱な野蛮人、この人工の荒野の中の聖なる原始人だ。彼らの奇装、彼らの音、彼らの遊びは、その共和国のための儀式であり、儀式はしばしば創造のドラマにかかわる・・・・・ ロックミュージック。それは地球を単位とした人間、グローバル人間の感じ取り方と在り方を知らせる響きだ。
いま、ロックシーンに立ってみると、あのころ(50年代のビートニクのころ)から無署名の巨大な意思とでも言ったものが歩き始めたのがわかる。それはその都度いろんな風に姿を変え、いろんなシーンを通ってきた。それらの変化するシーンはすべてこの巨大な意思の自己実現のためのものであった。
ビートニク、ポップ、そしてロックまたはプレスリーや、文化人類学の復活や、原始に帰れや、マーシャルマクルーハンや、フランツ・ファノンや、反戦や、ヒッピーと、網の目のように結ばれている。それはまたドラッグ・カルチャーや環境芸術化、複製文化。イデオロギーの終焉、禅や老荘思想、黒人文化、コミュニケーションの迅速、情報社会と呼ばれるものや大学問題や新しい性の考え方や、ニューファッション、アンダーグラウンド・シネマ、テレビ、漫画、都市化、ビートルズ、感覚型全人性、テクノロジー、等々の貴重な財産目録を持ち、これらは奇妙な網の目で結ばれている。だからこのうちのどれひとつをひっぱってきても、鋭敏にすべての部分が振動し、からまりあってくるのである。
美術手帳1970年10月号特集 「ROCK IS・・・ 原始性への回帰 日向あき子」より抜粋。
いやー 久しぶりにかなりアゲアゲなテクストに出会ったんだけれど、やっぱりそれが70年代の文献というのには無意識的にか、欲望的にか、どうなのかよくわからないのだけれど、漠然とした理由があって、この激しく揺れ動いていた時代の手触りやにおいといったものがテクストにまで沁み付いてしまい、同じような感覚や感性や衝動をもった読者にとって、過去のテンションを再生産することができるからなのだろうか・・・・・もちろん、想像的な領域だけなのだけれど・・・・
不思議なことにこのテクスト、今読んでみるとROCKのことを語っているとは思えない。もちろん、それは現在が2005年だからこそであって、35年も前のテクストがウソをついていると非難される筋合いはないのだ。それでも、このROCKという言葉をTECHNOやダブやレゲエ、ヒップホップに置き換えたとき、こんなにもすんなりと収まってしまうのはなぜだろう?そして、この35年前のROCKらしい2005年のテクノではなく、2005年のテクノらしくなくなってしまった35年後のROCKに、僕たちは何を求めてきたのだろう?この二つの間にできてしまった溝は何だろうか?そしてテクノもまた35年後には今のロックのように商品となり、古びていくのだろうか?時の澱みの中で・・・・
これはちょっと気になるところだ。
ROCKの政治性、実験性という前衛性が失われ、それがテクノという新しいジャンルに移っただけ・・・・と、簡単に処理できるのもある程度は確かなのだろうけど、どうも、いくつもの違和感が残る。初期ROCKの魅力は初期のテクノとは違うだろうし、だからといってまったく似ていないわけでもない・・・特にこのドラッグと音楽とシャーマニズムによる知覚のグローバリゼーション・・・もしくは、アンチグローバリゼーションをグローバルに共有するというグローバリゼーション・・・・・そんな部分だろうか?だとすればROCKとは・・・テクノとは・・・・いったい何だろうか?
ROCK IS・・・・
- ∞+∞=∞
- By ∞+∞=∞ / Apr 14, 2005 6:12 pm
ゴシックハートとメンタルヘルス ~今、生きづらさの様式美を巡って~
90年代にはさまざまなサブカルチャーが生まれ、そして消えていった。中でも出版業界においてバブルのように一時期売れまくっていたのが、「危ない1号」「BURST」「GON」「BUBUKA」「別冊宝島」(クイックジャパン)といった雑誌で、そこでは、狂気、精神病、自傷、自殺、ドラッグ、死体、盗撮、アイコラ、異常な性的嗜好性(ロリコン、SM、情死)、フリークス、援助交際、極悪犯罪、極左、極右、爆弾、ヤクザ、そしてアジア各国のこういった混沌とした情報の記事といった、反社会的嗜好性を強調した退廃的文化が何度も特集された。こういった雑誌は主に「鬼畜系」と呼ばれ、新宿にあるロフトプラスワンも、こういったサブカルチャーの流れにおいて非常に大きな役割を果たしていた。
このような雑誌のライターには、「完全自殺マニュアル」、「完全人格改造マニュアル」を書いた鶴見済、「あぶない薬」、「危ない28号」を書いたり、編集していた青山正明。最近、「自殺されちゃった僕」を書いた吉永嘉明。「ガロ」からその活動をはじめた社会学者、上野俊哉。「ニューエイジトラベラー」を書いた清野栄一、自殺した漫画家のねこぢるがいた。彼らはそのライターとしての活動や、遊び仲間として一定のリンクを保ったひとつの「ある一定のバックグラウンドと、考え」を共通とする集団だった。
重要なのは彼らが主張していた、ある一種のイデオロギーのようなものだと思う。つまり、宮台真司が援助交際少女をして「終わらない日常」を「まったり生きる」といい、鶴見済が「マニュアル化された薬と人格改造という手段、そしてサイケデリックトランスという超越的な音楽の作り出す、変性意識状態によって、閉塞的な社会をそこそこ楽しく生きる」という「世紀末の処方箋」を提出し、それらが希望をもって受け入れられ、インターネットの登場とともにバブルのように膨れ上がった瞬間が、90年代サブカルチャーの全盛期だった。
しかし、それも長くは続かなかった。宮台真司が「新現実」の2号において、「高度資本主義的な現実の流動性を軽やかに生きていくはずだった援助交際少女」は、メンヘル少女となり、リストカット、オーバードーズ、自殺未遂を繰り返していると書き、彼女たちの存在を持ち上げた過去を自己批判した。一方、抗精神薬やドラッグ、トランスミュージック、さまざまな人格改造によって自己を変革し、そこそこ気楽に生きていけるはずだった鶴見済の読者や、彼自身でさえ、いまだ精神的健康を取り戻しているとは思えない。薬によって楽にいきるはずの彼らが薬物療法の負の悪循環にはまり込み、さらにその量と種類を増やし、副作用に苦しんでいる。
結局のところ援助交際ギャルも、イケてるお薬、音楽にノリノリなツルミストも、最初から「生きづらさ」によって主体性を規定されたメンヘラーであり、それがあたかもメンヘラーであること、つまり、薬やセックスという現実逃避の手段を堂々と肯定する、宮台や鶴見の「一見、フーコーやルーマンで味付けされた、高度な社会学的言説」に寄りかかることで、壊れた自分を社会的にアイデンティファイしていく、という作業に夢を見出していたのだけれど、そんな付け刃はあっという間に剥がれ落ちてしまった。最初からメンヘラーだった者が、変な親父と行きずり的にセックスしまくろうが、薬と音楽で意識を飛ばそうが、よけいぶっ壊れるだけに決まっている。そんな、よく考えれば誰にでもわかるような結末にいたっただけじゃないだろうか?(多分、ここで問題にするべきなのはなぜ、そんな幼稚な言説にみんなハマり、薬だ、トランスだ、援助だ、と、集団的躁状態になっていたか、だ。鶴見の本はトータルで250万部も売れ、宮台の本も10数万部は売れているハズ。そして今となっては、そんなものがあったことさえ忘れられている)
最近、鶴見済の仲間だった吉永嘉明が出版した「自殺されちゃった僕」には、鬼畜系のブームの中でドラッグとレイブにのめりこみ、自分を見失っていく彼とその仲間や、自殺した妻、ねこぢるの厭世感が満ち溢れている。そしてそれらが一巡した現実においては、ひきこもり、ニート、フリーターといった問題が、終わらない不況、長引く戦争によって深刻化し、さらにゴスロリ殺人事件、練炭自殺事件といったメンヘラーの関わる事件が社会問題化している。このいや増す時代閉塞の現状とサブカルチャー、メンタルヘルス、ゴスという3つの流れの関係性において、「まったり」だとか、「ドラッグ」や「「トランス」、「援助交際」という、もはやまったく効き目がないことが証明された「世紀末の処方箋」をごみ箱に叩き込み、現実を直視しなければならない。
メンタルヘルスとゴスの関係性とは何か?ゴスロリ殺人事件に代表されるまでもなく、リストカッターや自殺志願者に、ゴスロリもしくはゴスに対する嗜好性の強い女の子が非常に多いという事実。雨宮処凛のようにヘビーメタル、ヴィジュアル系のおっかけから、右翼パンクバンドへ。もしくは鶴見済、清野栄一、上野俊哉、ねこぢるのように、左翼的なパンクスからサイケデリックトランス(メタルとの類似性がよく強調される。構造的な様式美とその「泣き」を追及するテクノミュージック)へと移行し、細分化した90年代の感性の変化。こういった動きは何だったのか?このような諸所のサブカルチャーの横断的な流れと、高原氏が言う「ゴシックハート」と「メンタルヘルス」について話し合う。もはや00年代においては「メンタルヘルス」と「ゴス」こそがサブカルチャーにおいて重要なキーワードであることは否めないのだから。
ゴシックハートとメンタルヘルス
~今、生きづらさの様式美を巡って~
3月6日(日) 午後7時会場、7時半開始
場所 早稲田大学文学部正門、斜め前、居酒屋「あかね」
地図と電話番号等は下記のコミュを参考にしてください。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=60859
明日は今日よりも幸せであるとか、人間精神は改良できるとか、人は平等であるか、努力すれば必ず報われるといった言葉を信じられなくなったとき、すなわち近代的民主的価値観が力を失ったとき、ゴシックはその力を発揮する。たとえば貧富の差が拡大し、富む奴は富に富み続け、貧しい者はそこから抜け出す術がない、不合理不条理な制度がまったく改まらない、社会的階級がはっきりし、立場のよい者がすき放題に弱者を苛み、やられる奴はやられっぱなし、しかもそれを変更する手段がない。そのための憎悪と軽蔑が剥き出しになり、よりひどい偏見が拡大し、排他的な民族主義や帝国主義が自らを正義と主張し続け、そこから発する暴力を多数が指示している。2004年現在だ。
こういう場で単純に明るい未来と人類の善性を信じられる人がどれくらいいるのだろう。現実の制度の多くが優位者のためのものであることは既に見透かされている。
そして実のところ、現実社会という「誰かのための制度」を憎み、飽くまでも孤立したまま偏奇な個であろうとするゴシックは、そういうクズな世界での抵抗のひとつなのである。
高原英理 「ゴシックハート」より
時代閉塞の感覚、つまり、この世界を生きづらいと感じることと、ゴシックハートは、決して無関係ではない。そして「健康的な精神」をこの世界で保っていくことができなくなった人々、それを自らの、いや、自分たちの呼び名として名乗った人々、「メンヘラー」「自傷らー」もまた、この感覚とは無関係にはいられない。「ゴシックハート」と「メンタルヘルス」を繋いでいるのは、この世界を生きることの生きづらさ、「世界の不毛性」ではないだろうか?
この対談では「ゴシックハート」の執筆者であり、澁澤龍彦氏、中井英夫氏の流れを直接受け継いだ高原英理氏と、「BURST」誌上でデビューし、「リストカットシンドローム1、2」を記した、ロブ@大月氏を招いてゴシックハートとメンタルヘルスについて語り合う。そしてこの二つについて語り合うことは、この世界の不毛さをどう生きていくのか?という問いに答えようとすることでもある。高原氏の深く、聡明な知識と知性、それと、数千人のリストカッターや自殺志願者に会い、長年にわたって取材し続けてきたロブ氏の経験から、果たしてどんな光が見えてくるのだろうか?
- ∞+∞=∞
- By ∞+∞=∞ / Feb 18, 2005 5:49 pm
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