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金のなる缶

再度お礼を申し上げますが、この度のわたくしめの病のために、カンパに協力してくれた方、本当にありがとうございました。

集まった金額を書くのも下品なので書きませんが、これまた奇跡的に入院費用とほぼ同じ額で大変助かりました。というのも3週間ほど嫌々働いた派遣労働で稼いだお金が入院費用とほぼ同じ額で、入院費用を稼ぐために働いてその結果、病気になってしまったのではないか、という気がしてならなかったのですが、皆さんのおかげで気が晴れました。

ハント症候群はウイルス性の病なので、ストレスと直接は関係ないのですが、ストレスによる免疫力低下によって引き起こされるものなので、遠因ではあるわけです。世の中には、嫌なことでも我慢してできる人間(そもそも何も疑わない人間もいるね)と、好きなことしかできない人間がいて、ボクは後者なのだと、この歳になってやっと病に気づかされた次第です。そして働くと貧しくなり、遊んでいると豊かになるという逆説を今現在生きているわけですが、これもみなみなさまのおかげです。まあ、感謝感激を繰り返すのも芸がないので、ひとつ物語でも紡いでみましょう。

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入院する数日前に和田堀公園で金のなる木を拾いました。金のなる木を拾うなんて縁起がいい、今年はお金がいっぱい舞い込んでくるぞ、と鉢から引っこ抜かれ無造作に放置された捨て木を家に持ち帰りました。拾って来た木のために鉢を買うのは癪なので、鉢を拾うまでとりあえずそのままベランダに放置してるうちに入院。退院して家に戻ると、病による散財を象徴するかのように、葉が全部枯れてしまっていたのです。

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回復のために、ハワイのティキドールをぶらさげてみました。ティキは古代からハワイ・ポリネシア諸島で崇められている精霊の総称で、それぞれ異なる姿と意味をもっているらしく、これはずばり金運に効くといわれています。金のなるティ木。なぜにハワイかというと、ポリネシアの文化と日本の文化の接点についてその昔、岡正雄という民族学者が『異人その他』で興味深い考察をしており、その影響であります。

余談ですがうちの近所の大宮八幡宮は精霊(小人)目撃情報が多いパワースポットして最近注目されていますが、テレビで小人発言を繰り返す的場浩司も頻繁に訪れるらしいです。小人目撃は無理だとしても的場目撃のチャンスはありそうです。

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金のなる缶も3つに増えました。これは金のなるティ木効果でもなんでもなく、同じジャスミン茶の缶をカンパの金から2つ購入しただけです。

入院費はすでに支払い済みなので、カンパのお金は誠に勝手ながらボク(ら)の道楽のために使わせていただくことにします。それは道楽のヒーリング効果を試す実験になるでしょう。完治するまでにすべてをきれいに使い尽くしたいと思います。お金の使い方についてはいろいろ悩みましたが、このお金を愉快に使い切らないと、生活のための新しいお金が入ってこない気がするのです。

まだまだ顔面麻痺は続きますが、三半規管麻痺に伴う平衡感覚の狂いはだいぶ治ってきました。麻痺が治ったというよりも数週間かけて脳が左右のバランスをチューニングし直した結果のようです。



みつを路線?

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確かに人から何かを依頼されてから、いつも苦がはじまるんだなぁ

まあ、そんなときはこの言葉と一緒に考えよう

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本当の苦は誰からも依頼が来ないことなんだなぁ

ぶちょう

ちなみに清沢満之はこんな人。ラディカルな消極主義ってのが気になる。
松岡正剛の千夜千冊



我が家のジャスミン革命

2月最後の日は雨。木にくっついた水玉がきれい。
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今月はとっても振り返りやすい。1日に入院、1週間後に退院して、そのまま今日までひっそりひきこもり生活。ビフォことフランコ・ベラルディの「世界中の ひきこもりたちよ 団結せよ」(『NO FUTURE』収録)という言葉にびびっと反応したボクだが、こんなに早く自分がひきこもり生活に突入するなんて思ってもみなかった。廣瀬純にはいつも騙される。

ひきこもり生活をしていても人が毎日訪ねてきてくれるから幸福である。団結の必要も特に感じない。わざわざ寒い中でかけなくても、見舞い客が幸を持ってやってくるのでボクは待って迎えるのみ。イベントに行けないから、代わりに自分の部屋で毎晩イベント主宰。お客様は神様です。

ちょうど一週間前に事件は起きた。4人もお客さんが来てくれたのでお茶でも出そうと緑茶の準備をしていたら、お見舞いの品だ、とジャスミン茶の缶を貰った。ジャスミン革命にちなんでなかなか粋な差し入れだねえ、と缶の蓋を開けると、そこには札束がぎっしりと詰まっていたのだ。一瞬わけがわからなくなった。これからボクがしようとしてるのはお茶を淹れることだよな。いったい目の前にあるぎっしり詰まった札束は何なのか。

それはみんなからの巨額のカンパだった。そのことに気づいたときにボクの頭の中にある映画のシーンが浮かんだ。近所の耳鼻科で翌日に大病院に行くように診断され、入院を予期したボクは、明日からの入院を充実したものにするため、何か暗示的なフィルムを観ようと思った。直感的にこの映画に決めた。

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フランク・キャプラ監督『我が家の楽園』のカンパが集まるシーン。

その映画の教訓は3つ。1.自分の好きなことをしろ 2.唯一の願いは健康に暮らすこと、あとは御心のまま 3.困ったときは友達がなんとかしてくれる

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缶の下に敷いているのは「東京なんとか」2月号。エジプト革命の表紙の裏はRLLの広告。病気してさらにおいしい生活? 

この映画のおかげでとても楽な気持ちで入院生活に臨めた。退院してもう一回この映画を見直してしまったくらいに自分にとってはタイムリーな映画で、このDVDも最近ギフトされたものだった。

「贈与の一撃」という言葉を昔好んで使っていたが、この一撃はとても強烈。いろいろな人の顔が浮かぶ。本当にありがとうございました。中心になって動いてくれた人も、1円を入れてくれた人も、みんなありがとうございます。

なんだか信じられないくらいの大金だったので、これは夢ではないか、と「芝浜」の女房になった気持ちでこの金缶を我が家で一番神聖な空間にしばらく隠して、そんなことなかったかのように過ごしてきたのだが、2月の最後の日である今日、やはり気になって確認してみたがどうやら夢ではなかったようだ。

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もらったときは、こんなお金いったいどうやって使っていいやら、と困惑したものだが、現金をありがたいものとして拝んでいてもしょーがないので、好き勝手有効に使わせていただくことにします。贈与のお返しは蕩尽で。

まずはカンパ入れと同じジャスミン茶缶を買おう。だってあの時本当にジャスミン茶飲む気満々だったんだもの。



中野の隠れた名店

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場所知りたい方にはお教えします。



たまたま太郎

毎日着るTシャツを選ぶのが朝目覚めてする最初の儀式なわけだが、この季節は下着としての役割に過ぎず、特にこだわりもなく寝ぼけ眼で無意識に選択することが多い。

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たまたま秘密結社アセファルのTシャツを着ていたことに気づいたのは、NHKの岡本太郎生誕100年企画ドラマ『TAROの塔』を見終わり、風呂に入ろうと服を脱いだときに、アンドレ・マソンの頭のない奇妙なデッサンが胸部に現れたときだ。ファシズムが猛威をふるっていた当時の切迫感を着るには今の時代は十分過ぎるほど条件が揃っているのではないか。

たまたまついでに書いておくと、その日はアセファルのメンバーでもあったロジェ・カイヨワの『遊びと人間』の「模擬と眩暈」の章を読み返していた。

連日タンジールクリニック(←これが「模擬」の遊び)を訪れる見舞客に対して、まるで自分が病人を演じている(実際病人なんだけど)ような気持ちにもなっていて、病状の眩暈(めまい/イリンクス)との相乗効果もあって、病人ごっこにハマりつつある自分を戒めるために手にとったのだった。

カイヨワは遊びの4つのカテゴリーの中の「模擬」と「眩暈」の組み合せ(あとの2つは「競争」と「運」。こっちの組み合せは今の社会と相性がいい)があまりに日常に近づくとそれは「遊びの堕落」になるのだと教えてくれた。油断すると気のふれた人と変わらなくなってしまう危険性があるのだ。ボクが冗談を連発するのはきっとそれを避けるためであり、冗談の通じない人と遊ぶことが困難なのもそのためだ。

岡本太郎とジョルジュ・バタイユは、カイヨワと違って、気がふれることをまったく恐れていないどころか、積極的にそっちに向かおうとしているところもあり、気が(ふれ)あったのだろう。下記は『TAROの塔』登場人物相関図。

http://www.nhk.or.jp/dodra/taro/cast/index.html

次週はパリが舞台なのでバタイユが登場する。以前、日本テレビの「明日の神話」の特別番組で日本のスタッフがパリまでいって岡本とアセファルの関係を探る企画をやっていたが、なにせ秘密結社なので謎が多く、アセファルの資料集である『聖なる陰謀』(ちくま学芸文庫)の編者マリナ・ガレッティまで引っ張りだしてかなりディープに切り込んでいたのが印象的だった。今回はドラマとしてどのように描かれるのか興味津々。

岡本太郎を演じるということは、強烈な模擬と眩暈のなかにイルことであり、俳優松尾スズキからも目が離せない。

これもまたたまたまなのだが、今図書館で借りている石原慎太郎の本に岡本太郎との交際話が書いてあり、その文章はこう締めくくられていた。

 彼の晩年、あるパーティで養女の敏子さんに手を引かれてやってきた彼を目にして固唾を呑んだ。聞くとパーキンソンという厄介な病を患っているそうだが、体は自由に動かせなくなっても、その目は相変わらずキラキラとしていた。

で私が思わず、
「でもいいねえ岡本さん、あいかわらず気のふれた少年みたいで」
いったら、その古い言葉の意味がわからなかったのだろう、
「なんだその、気がふれたってえのは」
聞き返されたので、
「半分気違い、ということですよ」
いったら、すかさず、
「なんだ、それならお前もそうじゃないか」
いい返されて私はもの凄く愉快だった。

石原慎太郎『私の大好きな日本人』



フラヌールの忠猫

長期失業時代に鍛え上げた遊歩術がさらに最近パワーアップしている。

遊歩者のことをベンヤミンは「フラヌール」(「ボードレール論」)という言葉で論じたが、目眩によるフラフラが常にある(夢)遊病者であるボクは、追憶と陶酔にひたりながらのジグザグ歩行により、都市を自分の夢のなかに引き込んでしまうのだ。

新宿などの大都市はさすがにしんどい。駅を歩くと人にぶつかるし、線路に落ちるのではないかという強迫観念が身体を線路に引きずり込もうとする。用事があって大都市にたまに外出すると、用事が済んだにも関わらず、無駄に街を徘徊してしまって、疲弊して家に帰り倒れ込む。この瞬間がたまらなかったりする。冒険なのだ。

い時間あてどもなく町をさまよった者はある陶酔感に襲われる。一歩ごとに、歩くこと自体が大きな力をもち始める。それに対して、立ち並ぶ商店の誘惑、ビストロや笑いかける女たちの誘惑はどんどん小さくなる。次の曲がり角、遥か遠くのこんもりとした茂み、ある通りの名前などがもつ磁力がますます抗い難いものとなっていく。やがて空腹に襲われる。だが、空腹を満たしてくれる何百という場所があることなど、彼にはどうでもいい。禁欲的な動物のように彼は、見知らぬ界隈を徘徊し、最後にはへとへとに疲れ果てて、自分の部屋に――彼によそよそしいものに感じられ、冷ややかに迎え入れてくれる自分の部屋に――戻り、くずおれるように横になるのだ。
ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』第3巻


唯一、リラックスして歩けるのが、わがカフェ・タンジール(現タンジール病院)の外庭、和田掘公園だ。フラつける「遊び」が空間にあるのがいい。退院して久しぶりにお気に入りのパワースポットに行ったら、忠犬ハチ公スタイルでやつが出迎えてくれた。

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ボクは猫と直接的な交流をしない主義で、目を合わせ、微妙な距離感を楽しむのが彼/彼女らとの遊戯なのだが、今回に限ってはやつがボクを発見するなり、お立ち台から降りて、ボクの足下に絡み付き、膝の上にのってきやがった。「お帰りなさい」というメッセージのように思えて、うれしかったが、腿に食い込んだ爪が痛かったのでおもわず払いのけてしまった。

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フラフラしてると猫との距離感も狂う。



インテリペペの美食倶楽部 Vol.6

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なんとかバー(仮)のインテリペペの美食倶楽部、第一第三金曜に絶賛開店中。
なんとかバーhttp://trio4.nobody.jp/keita/shop/16_nantoka.htmlの場所は、高円寺北3-4-12 キタコレビルの脇です。20時から!



今回は前々回に好評だったきりたんぽ第二弾!
秋田ふるさと館にて比内地鶏スープを購入しました!!
http://www.a-bussan.jp/shop/tokyo/index.html

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ことのおわり

▼ことのおわり
http://rocketnews24.com/?p=73400
[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=8PVyrG4MTGo&feature=player_embedded[/youtube]

▼ことのおこり
F.L.A.(Food Liberation Army)ステートメント



砂漠の遊牧民ベドウィンを模擬るわけ

真似をするにはわけがある。
神に祈るよりも、もちろん労働なんかするよりもやることがある人たち。

ノマド型投資とは何か?
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テントにいるベドウィンの男たちが、一日のうちで最も時間をかけるのは、お茶である。その次は、アッラーの神へのお祈りだろう。

男たちは、暇さえあればテントに招待し合って、お茶のパーティを開く。アラビア・コーヒーと紅茶をちびちび飲みながら話をするのが、楽しみでもあり日課でもある。

藤木高嶺「砂漠の遊牧民ベドウィン」『民族探険の旅 第4集アジア北部・西部ーシルクロード、砂漠と草原とオアシス』



男だけの世界ではダメだ。
CHANOMAD(茶乃窓)を久しぶりにやりたくなった。



これでおあいこ

退院してはや一週間。寝っ転がって薬物を血管に流し続ける阿片窟のような安堵な世界から、一転して毎年自殺者3万人以上のサバイバルな世界に戻ってきた。

平行感覚がおかしいので真っ直ぐ歩けず、外出してみるもまるで砂漠の砂に足を捕られてかろうじて歩いているかのような始末。顔を冷やすと回復が遅れるというので、口元に大きなマスクをした上にアラビア風のマフラーを巻き付け、気分はまるで白銀の砂漠を遊牧するベドウィンのよう。マグリブにも革命が拡大しているようで気分的にも鬱鬱しい日本人でいるよりずっといい感じ。

自転車には当分乗れそうにない。自転車をラクダのように乗る男、そんなことを言われたことがあった。心地よい速度が馬ではないのだ。

いつものところでハッと足を止める。新作うp! もうすでに雪で消えかかっている。
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おっしゃるとおり。(夢)遊病者のボクが自分で夜中に書いているんじゃないかと思うほど。単純じゃないんでここでは書かないけど。

今回のことのおこりは、確かに不運だったが、今までそうとう運が良かったので、これでおあいこなのではないか、という解釈が閃いたのは友人にこんな本を差し入れしてもらったからだ。
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僕の意見では、運はとても大きな役割ー恐ろしいほどの役割を人生で担っている。僕らが認めるよりもね。人は自分が人生をコントロールしているとか、人生をコントロールするための努力はいいことだと思いたがっている。だから精神分析みたいなものは、人生をコントロールする手助けになる限りにおいて、素晴らしいものだと思われている。でも結局のところ、運こそが人生の大きな部分を支配しているんだ。ーウッディ・アレン
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実のところ、人間が個人として避けることなく直面しなければならない重要な(そして解決不可能な)実存という問題に対するアレンの執着は、チャップリンに匹敵しうるものだ。このエッセーにおいて特に強調したいのは、多くの人は気づいていないが、記憶に残るアレン作品の多くは、「マジック・リアリズム」の様式(及び内容)を文学から映画へとユニークな形で持ち込んでいるということだ。この「マジック・リアリズム」とは、ある文学辞典によれば、「現実的なフィクションにファンタスティックで神話的な要素を、感情を交えずに組み込むこと」である。
リチャード・シッケル『ウッディ・アレン 映画の中の人生』


直面しなければならない重要な問題に真っ向から取り組む好機を貰えて、自分の運の良さを実感している。突然やってくる顔面麻痺ってまるでマジック・リアリズム。ボクとアレンの間に共通点が見いだされるとしたら、それはきっと運を信仰していることだろう。言葉との偶然の出会いを遊んだりね。



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