高速道路で肉ずれが起こりました。



警官「寄生虫なので、できれば引き返して最初の信号を右に行って下さい」

ぼく「えっ」

警官「寄生虫ですから、引き返してください」

ぼく「なにそれひどい」

警官「えっ」

ぼく「ぼくが寄生虫ってことですか」

警官「寄生してるのは警察ですよ。寄生してるので重体なんです」

ぼく「えっ」

警官「えっ」

ぼく「だれが重体ですか」

警官「誰というか、まぁここを通った人全員ですかね」

ぼく「あなたも僕に寄生しますか」

警官「えーとね、あのですね、この先でトラックが横転して

   積荷が産卵したんですよ」

ぼく「えっ」

警官「つまり事故ですね」

ぼく「何が産卵したんですか」

警官「精肉業者のトラックで、冷凍された肉が産卵したみたいです」

ぼく「なにそれやばい」

警官「ええ」

ぼく「重体の人は大丈夫ですか」

警官「えっと、まぁ寄生虫とはいえゆっくりと動いてはいますから」

ぼく「なにそれこわい」

警官「えっ」

ぼく「えっ」

警官「とにかく、先ほどから警察が現場の方で超刺してますから」

ぼく「なにそれもこわい」

警官「えっ」

ぼく「えっ」




駅員「乗車券とかはお餅ですか?」

ぼく「いえ、ちがいます」

駅員「いや、ちがうじゃなくて、お餅じゃないんですか?」

ぼく「酢イカはあるけどお餅じゃないです」

駅員「お餅の酢イカは残高不足ですが、

   お金があればお餅の酢イカにチャージできますよ」

ぼく「すっぱそうですね」

駅員「お金はお餅ですか?」

ぼく「ちがいます」

駅員「えっ」

ぼく「えっ」

駅員「はぁ?お金もお餅じゃないのですか?」

ぼく「あたりまえじゃないですか」

駅員「ちょっとこい」




おれ「ハンバーグセットとあんみつをください」

店員「はい。ご注文は異常でよろしいでしょうか?」

おれ「えっ」

店員「えっ」

店員「ですから、ご注文は異常でよろしいでしょうか?」

おれ「いやよくないです」

店員「では、お決まりになりましたらもう一度ボタンでお知らせください」

おれ「えっ」

店員「えっ」

おれ「なんで?」

店員「ご注文がお決まりになってないようなので、

   決まりましたらお知らせください」

おれ「いや決まってますけど」

店員「あ、それは失礼しました。ではご注文をどうぞ」

おれ「えっ」

店員「えっ」

おれ「いや、今さっき言ったとおりですけど」

店員「えっ」

おれ「えっ」

店員「えーと、では、ハンバーグセットとあんみつでよろしいですか」

おれ「はい、いいです」

店員「では、ご注文は異常でよろしいでしょうか?」

おれ「いやだからよくないですって」

店員「えっ」

おれ「えっ」






 流行は4月から5月だったんで、もう古くなってる「なにそれこわい」と呼ばれるコピペ群。ドイツの社会学者ニコラス・ルーマンによれば「コミュニケーションは存在しない」なぜならコミュニケーションと呼ばれている伝達行為は、ある情報の選択と、その情報のコンテクストについての選択であり、受け手によるこの二つの差異の観察だからだ。つまり、正しい意味や内容の交換や合意が存在しなくてもコミュニケーションは成り立ち、再生産される。しかし、齟齬や意味不明な接続や応答が続くと人々の認知的負担や不条理感が増大し、社会は成り立たないだろう。コミュニケーションの参加者は偽りの合意形成や意味を「交換されたかのように」振舞うことでカオスやノイズが入る隙間をお互いで忘却する。ウインナーコーヒーを頼んで、出てきたクリームの乗っただけのコーヒーに、「コーヒーにウインナーが入ってないじゃないか!!」と怒ることは誰でも可能だ。コミュニケーションの困難や不可能性は日常のあらゆるコミュニケーションに裂け目となって存在するが、その暗黒の深淵は常に忘却の淵となる。しかし、こういった淵や淵と橋との境目が存在するがゆえに、人々は綱渡りを楽しむことができる。このシュールな言葉遊びのように。はみ出しつつ、危なげに、しかし滑稽に道化が軽々と綱をわたっていくならば、それは爽快な見世物だろう。毎日のコミュニケーションが綱渡りであることを意識しつつ、その上で戯れる。もちろん、一歩足を滑らせれば社会的に失墜するという恐怖もあるが・・・・  それを笑い飛ばすことだってできるさ。訓練さえつめば。



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