一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき
泣いてばかりいた。
路上で。
なぜだかよくわからない。
昨日、会社の知り合いからアラーキーの作品全集のうちの2冊をもらった。全20巻のうち最も欲しかった2冊をもらったのだ。1冊は物語15「死、エレジー」もう1冊は物語16の「エロトス」。特に昨日の夜は「死、エレジー」ばかりを、じっと、見ていた。深夜の二時くらいまで。巻末の写真家本人の説明によればこの写真集は1967年から72年までに撮られた写真だけで構成されており、当時森山大道の伝説的写真集「写真よさようなら」と同じシリーズとして同じ版元から出版されるはずだったらしい。
内容はいかにもアラーキー的なのだが、明らかに80年代の「写真時代」とは違う。明らかに。性と生と政と聖がいくつもの断片となって重なり合い、モザイク状に散らばり、複雑に響きあっている。猥雑で混沌としていて、熟しきったフルーツのように、皮一枚穴が開いてしまえば中の芳醇な液体が全て溢れ出してきそう、なのに、どこか完全に冷め切っていて、砂漠で風化してミイラ化したか、風葬や鳥葬であらゆる生物につつかれ、舐め取られ、風と雨と雪と時に溶かされ、きれいさっぱりした白骨死体みたいに、完全に死んでいる。写真の中に散らばったいくつものパーツ。新築のアパート群の前の荒野でオナニーする全裸の鈴木イズミや、午前5時の青い光の中で乳房をわしづかみにされる天井桟敷の女優。謝国権の性の教科書。サルトルのようにゆがんだ眼球が本物の路地を彷徨っている。さびが浮いてボロボロの電話ボックス。電通のスタジオ。女陰の裂け目が作られた国旗。三島由紀夫のポスター。絡まりあう無数の男女の肢体。繰り返される暗転と溶暗。
轟音。
僕の横をとてつもない勢いで、しかもピーピーと笛を吹きながら突き抜けていくやつがいると思ったら、TASKEで、あっという間に箱の店員に捕まって怒られてやんの。渋さ知らズのライブは絶好調でアゲアゲ。今日は「SAVE THE 下北沢」のデモ。そのままライブハウスを出てデモカーの後に並ぶ。だいたい200人くらい。この前の反PSEデモと同じくらい、か。参加者はさすが下北とあってこじゃれた若い男女が多い。みんな小物使いや古着の重ね着が上手いね。プラカードや古布で作った吹流し?みたいな飾りもいいし、デモカーの風船もよかった。流れてくる音楽だってフィッシュマンズやくるりだもんね。
もっとびっくりしたのは警官と公安がほとんどいないということ。いやあ、暴力的で極左なデモばかり行ってたのね。僕って。本当に気抜けするっていうか、ここまでピースだと「パレード」って呼び方にまったく違和感がないよ。ただ、歩き出してしばらくしてから渋さ知らズのメンバーと、デモ参加者の伴奏が始まると事態は一変。もう、みんな踊りだすは、騒ぎ出すは、白塗り舞踏家の人たちも大活躍。これがすごいの、なんの。渋さのライブはいくつも見たけれど、ここまで客と演者とダンサーが一体化したものは見たこと無い。まるで中世の阿呆船か巨大なチンドン屋集団としか思えない。しかも全てが流れていく。路地の上を。
途中でスズナリの前で音を落として、さらに細い道へ。なんと道幅が3mくらいしかないからデモの人たちでいっぱい。警察官も何も言わないの。もう、それをいいことに路上で好き勝手踊る踊る踊る。手を広げ、大声を出して。ちょうど、渋さお得意の「ラーラーラー、ラーララー」っていうメロディが繰り返されて、大合唱。夕日が差し込んでくると哀しくて切なくて、それがうれしくてやりきれなくてボロボロ踊りながら、泣く。暖かい光と、轟音、踊ったり笑ったりしている人々。ただ、それだけ。
「闇市の跡を消すな!!」のプラカードを持った、自分と同じくらいの歳の人を見て、笑う。どう見てもサイケデリックトランス好きのデリッカーギャル男っぽい人が、渋さのフリージャズみたいなトランペットでへろへろ踊って、「10年前はここに住んでたんだよ」と、話し掛けてくる。
何もかもが新しく、何もかもが懐かしい。
よく考えれば、白塗りの人たちは山海塾やダイラクラカン?といった寺山修司や土方巽直系の人々なのだ。そんな人たちと一緒に踊っているのかと思うと、またちょっと泣けた。ゴールの公園に入る。ここでも音楽は止まない。楽隊を中心に人々は円を描き、声を合わせる。その声は透明な渦となって春の大気の高みへと吸い込まれ、遠い遠いどこかで、青く青く哭いた。
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- By ∞+∞=∞ / Mar 21, 2006 2:38 pm