ジャコバン派
さて、僕は基本的に、ヘイトスピーチをチャット以外ではしない様に心掛けている。
僕の黒や赤の仲間の日記には当然の様に、粉砕/shit!/殲滅/反革命/むかつく/糾弾/Bullshit!!!/馬鹿ばっか! が踊る。
しかしいつも、リテラシーを持てない若い子供達がそれを読んでも、苦々しさが残るだけだと感じる。悲観主義は冷酷なリアリズムとして必要だ(知性における悲観主義、意志における楽観主義ーーアントニオ・グラムシ)、けれど否定主義は自家撞着と採られかねない危険を持つ。身内で言葉する形式も、人払いになってしまいかねない、自戒も込めて。
僕らは、肯定と希望を語る言葉に、未来へ背中を押される。
過日、青山ブックセンターで観覧した「マルチチュードとは誰か?」トークセッションでも、姜尚中さん毛利嘉孝さん水嶋一憲さんがみな、悲観的な現状を自覚しつつネグリ/ハートの言葉の中から希望を紡ぎ出そうとしていた。
姜さんはパフォーマンスとして俗情に訴えかける「隣人の自死」への共感を説き、何時か来る「このままでは駄目だ」という自発的な巻き戻しへの期待を口にしていた。毛利さんは身近な若者の可能性に信頼を置きながら、世界の新しいタイプの運動にマルチチュードを見いだしていた。水嶋さんは、多くのネグリ/ハートの言葉から彼等の不屈の楽観を検視拡大して僕らに伝えようとしてくれた。
いつからジャコバン派は若者の心を引き付けられなくなってきたのだろう。この10年の国粋化は明らかにネオリベの魅力に対して、僕らが対抗的なチャームを現せなかったからだ。若い無知な、そして貧困な文化の中で育った若者を、肯定して育て上げることを僕らは怠ってきたのかもしれない。それは癒しのナショナリズムの反語を僕らが持ち得なかったからか。
そう云った意味で「マルチチュード」における〈共=コモン〉が本当に重要な意味を持ってきていると、改めて思った。
僕のやっているRLLはそもそも、肯定されるべき政治にまっさらな若者(じゃなくても当然いいんですけど)の為の活動だ。非常に啓蒙臭いことをやっていると我ながら思ったりする。けれど幾多のセッションでパーティーピープルや音楽ファンやレイヴァーに支持をされ、多くの先達に激賞されると、魂のポトラッチを果たした気持ちだ。これは上手く回っていると感じている。肯定的啓蒙への喜びの言葉を貰うと、これからも継続してゆく勇気が湧いてくるものだ。
打ち上げで水嶋先生は、僕らRLLに「彼等マルチチュードが希望だ」と勿体ない言葉をくれた、酔った席でのことではあるけれど。とまれ指し示す肯定とそれからくる希望を大切にしてゆきたい。
あ、さて、人は何故にジャコバン派になるのでしょうか。いったいどんな作用で。
- Intellipunk
- By intellipunk / Jan 28, 2006 10:28 pm