喜劇的人間
2009年最後の日記に「ハーポ部長の生活と意見」という仰々しいタイトルをつけたのは、チャタレイ裁判で有名(有罪)な文芸評論家、伊藤整氏の次の言葉を見つけたからだった。これをサゲにもってきて2009年をきれいに締めくくるつもりだったのだが、残念ながら失敗に終わった。きっとこれは10年代に残されたボクの課題なのだろう。
「二重の論理をやめて、一重の論理で生きる時がナマの現実生活である。だから強い生命意識に駆られる人間たちは、舞台の約束をそのまま現実にしようとして、人を殺したり、自ら死んだりしなければならなくなる。革命する芸術家と自殺する芸術家は二重の存在である芸人の意識をいつの間には忘れて、そのまま舞台で一重のナマの生活にしようとするのです。」(『伊藤整氏の生活と意見』)
リンギスの「社会は、たた単に暴力的な者を社会病質とみなすのではなく、―暴力であっても、警察やプロ・ボクサーにおいて見られるように完全に社会化されることもある―、二重、三重の人生を送る者を社会病質とみなすのだ」という言葉に照らしあわせてみると、芸人であることもなかなか生きづらそうだ。
う~ん、それは困る。
ここでいう芸人とはもちろんテレビや劇場で笑いをとることを仕事にしている人間のことではない。自分という人間を戯画化できる人間のことである。自己戯画化とは自己卑小化ともいえる。『伊藤整氏の生活と意見』のなかで著者の伊藤整氏はこんな処方箋を出している。
「自己卑小化によって人間は、自分を悲劇的人間として美化することも、深刻になることもない。これは自己救済の方法として有効である。」
ふー、助かった。
2010年の映画始めは高架下の昭和な映画館、銀座シネパトスでの森繁特集上映。大好物の『喜劇 とんかつ一代』(2度目の鑑賞)と森繁芸能生活40周年記念の新旧オールスターキャストの予備校もの『喜劇 百点満点』。大満足して森繁気分で銀ぶら。だがとんかつは高すぎて食えず。
空気を読んで上手に笑いをとっていくテレビ的な芸人には全く憧れないが、銀幕の軽快な喜劇人には憧れる。 そんなわけで読書始めは『森繁自伝』。満州でソ連兵に春画を売って食いつないだり、撮影所での猥談の評判でいい役をゲットしたり、と森繁の自己戯画芸が輝る。
- HarpoBucho
- By harpobucho / Jan 10, 2010 8:10 pm