アソコのポジショニング問題
いきなり不謹慎なことを書いちゃいますが、芸能人の訃報というものは、退屈な日常生活にサプライズをもたらすエンターテイメントだと思ってます。芸能に携わるということは死までも見世物にすることではないか、と。葬式は彼ら/彼女らの最後のショーであり、テレビを通じて、一大スペクタクルとしてお茶の間に届けられるわけです。勝新の葬式のワイドショー映像、誰か持ってない?
丹波哲郎や岸田今日子の死がボクたちにとってショックなのは「大霊界」や「ムーミン」といったかたちで幼少時代に刷り込まれ、自分のイメージの中に入り込んだ何かを失ったことがショックなのであり、要は自分が想像以上に年齢を重ねてしまったことに対する驚きでしかないのです。
しかし、訃報で久々にヘコむ気分を味わいました。カンニング中島の死は、全盛期の虎ノ門を観ていたテレビっ子のボクにとっては、知人の死のように、フツーに(=とても)ショックなわけです。中島の死は葬儀のスペクタクルを生み出さないし、誰のノスタルジアも刺激しません。芸能人としては無駄死にです。まったく無念でなりません。
相方の竹山は、これから「かわいそうな人」というカテゴリーに分類されてしまうでしょう。これは汚れ系コメディアンにとってはタレント生命にかかわる大危機です。コメディアンにとっては、味方(ファン)と敵(逆ベクトルのファン)の視線のみが重要なのです。同情の眼差しほどキツいものはありません。竹山は、これを振り払うために、タレント生命をかけて相方の死をネタにする可能性がなくもありません。あるいはタレント生命を自ら絶つかもしれません。あんがい何事もなかったようにタレント活動を続けているかもしれません。今後の竹山の動向に注目です。
で、やっと本題なのですが青島幸男が死にました。ボクが嫉妬心で呪い殺したのかと思いました。ボクは青島幸男を妄想の中でライバル視していました。彼の芸風が好きなわけじゃありません。都知事としての仕事は全く知りません。ただ彼のポジショニングのみに嫉妬していたのです。
高度経済成長絶頂期に、サラリーマン経験もないくせに「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ」と作詞して『ニッポン無責任時代』を演出した立役者が彼なのです。スーダラの思想家なのです。スーダラスタファリズムにとっては、ラスタファリズムにおけるマーカス・ガーヴェイのような存在なわけです。
スーダラとか無責任男とか聞くと植木等のことを連想しがちですが、彼はいたって真面目な性格だったらしいです。青島幸男が作詞した『スーダラ節』の歌詞の不真面目さに悩んだあげく、郷里の父に相談したくらいです。有名な話ですが、浄土真宗の僧侶である父は、その歌の歌詞を聞いて、「この歌詞には浄土真宗の教えがある」と言ったそうです。そして「スーダラ節」が生まれ、「スーダラスタ節」が生まれました。スーダラスタファリズムの思想的側面に影響を与えたのが青島幸男だとすると、情動的な側面に影響を与えたのが、植木等の父、植木徹誠だったのです。
青島のポジショニングのうまさの話をしようと思ったのですが脱線ついでに植木徹誠のいいエピソードを記しておきましょう。
世の中の戦争熱が高まっている頃、招集令状を持って壇家の人が挨拶にやって来た時、徹誠はこう言ってのけました。
「戦争というものは集団殺人だ。卑怯といわれても生き帰って来い。そして、なるべく相手も殺すな。」
今なら誰でも言えますが、あの時代にこんな言葉が言えるなんておったまげたものです。もう感動して、青島幸男のポジショニング問題はどーでもよくなりました。もう書くの疲れたし。
が、本題を書かないで終わる日記も寂しいので、簡単に要約しておきます。
クレイジー・キャッツ期における青島幸男のポジションはものすごくおいしい。あの位置にあこがれる。平成の無責任男こと、高田順次のあのポジションも同様にものすごくおいしい。あのポジションはただ待っていても獲得できない。楽勝に見えて、実は、かなり複雑な力に関する交渉事が必要とされる。それは密かに水面下で進行する。日々、ちょっとずつズラしていく。その結果があのポジションなのだ。
ボクの職場でのポジションもいい感じです。なんと今年の仕事納めは明日!怒涛の18連休です。同僚はもっと年末まで働いているんだけどね。これは単にボクの境遇がラッキーなのではなく、日々の地味な交渉術のなせる高度な技(アート)なのです。楽するためなら努力しますよ。
こんないいかげんな発言が周囲に許されるようになれば、そのポジショニングは大成功です。いい加減です。ボクはまだまだですねー。
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高田純次 発言集1000選
- HarpoBucho
- By harpobucho / Dec 21, 2006 4:21 am