DJ寄席評
マルボロ内親王が「平岡正明のDJ寄席」の感想を日記で書いてくれました。ありがとう!
平岡さんの話はパッケージされていない、というかされえない。これは本質の問題です。企画者ハーポ部長は、「寄席」の公式の責任者でもありまたパブリシティー上の都合もあるからトピックやタイムテーブルを設定し、それなりの方向付けを試みていたみたいですが(「猛獣使い」と自称していました)、そういったパッケージ的な期待という点では、ほぼ裏切られていたんじゃないんでしょうか、「DJ寄席」?いや、それでいいんです。
平岡さんの語りを形容する言葉なりイメージなりを自分なりに探しましたが、とりあえずいま思いつくのはひとつ、安直だけれど、星座。「宝石箱を撒き散らしたような夜空」なんて表現がありますが、これは同時に平岡さんを形容する表現でもある。まき散らされた星々は、それ自体はもちろん星座ではありません。星座なんてのはその時々の感傷が空に投影されたものであり他にどのようなものでもありえますし同じ星の組み合わせでも名前はどうにでもつけられる。つまりそういうことなんです。
平岡さんの二つの源泉、記憶力と妄想力。それらはもちろん絡み合ってはいますが、さしあたり記憶力が宝石をまき散らし、妄想力がその時々の感興に乗って星座を描き出す、と言ってみます。そしてそれらはシャワーです。星空は、理科の資料集みたいに星座の輪郭だけで構成されているのではなく、まずはシャワーとして、撒き散らされた宝石の錯乱として全身に降り掛かって五感を震撼させ、その震撼からおずおずと星座が浮かび上がってくる。とはいえ平岡正明の星座はおずおずなんてしていないけど。
原初には火だか水だかわからないがとにかく混沌があり、そこから光と闇が分かれ大地と空が分かれ昼と夜が分かれつまり星空の領分が生まれます。とすると平岡正明は、さしずめ毎回混沌から始める、毎度生まれ直す宇宙と言ったところか。その度にぼくらは宇宙の生誕を目撃しまた散らばった宝石の錯乱からそのつどの星座の浮かび上がるのをみる。イメージばかりで書いていますが、しかし平岡正明の照準先を考えるならば、これらのイメージは幾らか正当なのだ。というのも平岡さんは、まぎれもなく原初に宇宙を産出したであろうあの混沌からエネルギーを得、そしてまた星座を通してまさにその地点をこそ名指そうとしているからです。
さしあたりは大地だ。それが平岡さんを黒人的なものへと結びつけます。とりわけジャズ。ジャズにうとい僕は平岡さんがジャズの名において浮かび上がらせる一くさりの星座をちゃんと把握できはしませんが、しかしその星座がなにを希求しているのかはわかる。つまり原初の混沌。それは過去へと回帰してきえてなくなることを願っているのではけっしてありません。つまりジャズの名のもとに浮かび上がるひとつの星座の配置が、そのままあの混沌を直接に指し示す形象となっている。いやはや、それはあまりに直接なので、その配置そのものを混沌と呼んでしまうそんな粗忽者がいたっておかしくはないのだ。
しかもひとつの星座はけっしてまとまりをもった完成体ではありません。平岡正明の星座はクラインのつぼのように、その線をなぞっているうちにいつの間にやら別の星座の中に入り込んでいる。たとえば下町は深川遊郭の世界。「DJ寄席」第一回のオープニングはジャズ揺籃の地ニューオリオンズに襲来したハリケーンカトリーナをめぐるブルースから、海抜0メートルという位相空間を通って直接深川へと僕らを導いていったのでした。ここにはすでに二つにして同時に一つである奇妙な星座が浮かび上がっているのですが、驚くべきことにこのアマルガム的星座は単にジャズにおいて見られた星座よりも、その輪郭をもってさらにいっそう紛れもなくあの混沌を直接に指し示している。いったいどんな魔法が?
もちろんこれは始まりにすぎなかった。たとえばそれら水辺は、ビリー・ホリデイの”I cover the water front”から横浜のウォータフロントへもつながり、その先には山口百恵の菩薩姿が屹立する。そのわきでは座興のように水戸街道甲州街道中山道東海道といった主要街道に遊郭を構えさせる徳川幕府の狡智なんかがほの見えたり黄河と揚子江の中間に居を構える水滸伝梁山泊の姿がほの見える。それらいっそう錯雑とした星座は、相も変わらず驚くことによりいっそうと混沌の輪郭をぴったりと配置している。こりゃ狂っている。
絶えずより錯雑と増殖しつづけその度にぴったりとあの混沌を名指してしまう奇妙な星座群。こんなものはどう考えても手のひらに乗っかるものではなく、せいぜいシャワーとして享楽するしかない。平岡正明の言葉は絶対的マルチメディアなのだ。たしかに踊ってみせてもくれる。歌ってみせてもくれる。口でラッパだって吹いてくれる。しかしそういうマルチメディアじゃないのだ。平岡正明のマルチメディアはあの星座群でありまたその狂気である。その前では視覚も聴覚も消え失せて、つまり星座の蠢きのみ。それが人間の不可触な根源にとどくから、その残響がぼくらの実際の五感を震撼させる。
そんな平岡さんとハーポ部長の組み合わせというのがやはり面白い。ハーポ部長は文字通りのマルチメディア人間。実際のコンテンツならず「感覚比率」をもジョッキーしてさらには混ぜ合わせて、アドホックなマルチメディアを作っていくコンセプトメーカーです。今回の企画ではそういった点で、二種類のマルチメディアの不可能な出会いとしてロマンティックに語ったりもできるかも。ハーポ部長はハーポ部長で、自身のマルチメディア実践に沿った形での「寄席」というものを明らかに構想していて、たぶん音楽流しながら映像流しながらそこに触発されていわば撒き散らされる宝石群を軽やかにジョッキーしちゃいたい、みたいな野望があったんじゃないでしょうか。最後の部分は分からないが、その前の部分までは間違いないと思う。しかしマルチメディアはもろもろのモノメディアをジョッキーするのであって、平岡正明はもとから異様なマルチメディアであった。そして結論から言ってしまうと、やっぱり平岡正明のマルチメディアがハーポ部長のマルチメディアを飲み込んでしまったっていう感はありますね、正直。しょうがないよ、あの宇宙にはどでかい金玉がついてるんだから。
だらだらと書いちゃうんなあ。きりつけないと。
平岡正明には宿命がある、と僕は決めつける。パッケージにならない平岡さんは痕跡を残さない。いやもちろんそれぞれの星座誕生の立会人であるぼくらのもとには残る。しかしやはりそれでも残らない。だってよ、平岡さんの語りの中ではあの奇妙な星座はその配置そのままで混沌を指し示しちゃうんだもの。そして平岡さんは毎度新たに原初の混沌から開始する。ということはつまり、宝石箱を撒き散らしたあと、平岡正明は丁寧にその混沌をもって帰るのだ。だから毎度あらたに、南京玉すだれを広げてみせる香具師のように、狂った星座群をもって混沌を描き出すことができる。そして束の間魅了されたぼくらは、混沌をもはや指し示さない星座の輪郭だけを胸に残される。高速の巻き戻しを見ているかのように、宝石たちは宝石箱のもとへと帰っていき、そして平岡正明はニヤニヤと帰路へつく。
だから平岡正明には宿命があるのだ。つまりそこには思想的嫡子が生まれえない。あれら宝石どもの狂乱はサーカスの喧噪であり、誰のものにもならない。そしてそのこと自体が平岡正明という資格を形作る。サーカスには嫡子はいない。せいぜいその喧噪をくすねる私生児があるばかりだ。そう、だから僕はいまこうやって平岡正明について勝手なことを書いているというわけなんです。つまり平岡さんの星座群からなにがしかを盗んで、こっそり自分なりの星座を形作る。それは僕の中に生まれたある小さな存在の出生証書となる。そいつは平岡正明の私生児なのだ。ついにはあの騒がしい宝石箱から宝石が飛び出し束の間の星座を描き出すことがなくなってそれ自体がひとつの墓標と化してしまうとき、そこで残りうるのはぼくらがそれぞれくすねて作り上げたちっぽけな私生児的星座群だけなのだから、こうやって必死に自分のどこかに跡を残そうとしているのです。そうしてそれら残された平岡宇宙の跡形のない星座群が、まったく似ても似つかぬ別物であるのに、平岡さんの星座群が原初の混沌をそのままに指し示していたように、ぼくらの知らぬところでぼくらの星座群が、平岡正明という存在を直接に指し示す狂った星座を形作るかもしれないと夢想することくらいは許されてもいいんじゃないでしょうか?
- HarpoBucho
- By harpobucho / Nov 06, 2005 3:03 pm