D&G(Deleuze & Guattari)
『アンチ・オイディプス-資本主義と分裂症-』(河出文庫)新訳記念Tシャツ!
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神科医でありラディカルな運動家でもあるフェリックス・ガタリ。二人は、五月革命で燃え上がった1968年のパリの片隅で出会い、非常に革命的で革新的な思想をコラボレーションし『ドゥルーズ=ガタリ』の名の歴史的共著を数冊書き上げた。
一般的に現代思想/哲学が歴史的蓄積に支えられ、抽象的で純粋な思考/至高性に重きをおいたのに対して、ふたりがとった姿勢は哲学や文学という概念やテクストの、即物的なおもちゃの組み合わせや手製の兵器風ガラクタ集め、パッチワークやプリコラージュ、そしてそれによって行う思考のテロルだった。多くのアカデミズムは、路上のホームレスや家庭のアル中やDVなど様々な社会不適合者達を、「対象」として研究し社会的な問題を解決する、という意味で彼らを社会に包摂し再利用する。しかしD&Gの思想は、彼らとコラボレーションすることによって、社会という環境の方を問題視し解体することによってだけ、未来を懐胎できると主張する。
「革命家は知っている。逃走は革命的で、引きこもりや気まぐれさえも、テーブルクロスを引っぱって、システムの一端を逃げ出されるのなら革命的である。」(『アンチ・オイディプス』)
社会は常にフレームに押し込もうとする。国籍・社会・会社・家庭・身分・貧富・性別・人種といったフレームが幾重にも個人に被せられ、持ち物検査し身分証の提示が求められる。そういったカテゴリーに当てはまらない個人の存在を社会は、常にテロリストやキチガイとして、敵視し排除し管理する、権力の恒常なのだ。誰しもが無意識に階級と社会的なアピールと、その帰属意識の奴隷なのだ。だからこそD&Gは「オレは父親であり、母親だ。ドイツ人ではなくて黒人だ、世界の人種の全てだ。あらゆる罪人であり、王位の正統後継者だ」とニーチェやアルトーを引用して言う。これは決して錯乱ではなく、社会のフレームのサンプリングとカットアップとコラージュによる強度の変遷過程だ。それらはかき混ぜられ移行し、社会性や関係性やコミュニケーションの生産を変えていく。
ジジェクは『身体なき器官』でD&G読者をヤッピーと揶揄する。マッケンジー・ワークは『ハッカー宣言』でD&Gは容易に美学的形式を帯び、ブランド商品として学問的文化的市場で知識人版ドルチェ&ガッバーナに堕ちたと記す。だからこそRLLは積極的にD&Gをドルガバとして混濁させアレンジし着倒すことを勧める。闘争/逃走の美学で階級と帰属意識をサンプリングし、無意識的に規定/基底された社会の規則をハックすることを望む。そしてそれ以外に革命などありえない。
ボディの色は白。