ドゥルーズ

ドゥルーズ・知覚・身体

おもしろそうなシンポジウムなので行こうかな。
廣瀬純、佐々木中ほか、みなさん面白そうな方々がドゥルーズで話される!
ひろじゅん、タイトル未定。そういやビブリオテックの連続講座 「Ainsi s’insurgent les amoureux(こうして恋人たちは蜂起する)」がドゥルーズ哲学についてだったな。もの凄く面白くって「おお、なんたるサイケデリア。」ってのまで書いた位にして。

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立教大学心理芸術人文学研究所主催シンポジウム
「ドゥルーズ・知覚・身体」12月22日(土)立教大学新座キャンパスにて開催


立教大学心理芸術人文学研究所(埼玉県新座市、所長:宇野邦一)は、12月22日(土)13時30分より、新座キャンパス6号館3階 N636教室にて、シンポジウム「ドゥルーズ・知覚・身体」を開催します。

哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-1995)は、数々の著書の中で、行動的図式に収拾されない潜在的な知覚・身体の在り方を問題化・概念化してきました。精神科医フェリックス・ガタリとの共著にもしばしば表れる「器官なき身体」をめぐる身体論もまた同じ問題系の中にあり、現代社会に生きる身体の状況と、それに敏感に反応する芸術表現を考える上で、多くの貴重な示唆を残しました。このような問題系において、改めてドゥルーズを解読し、これを起点として、身体、知覚、芸術表現を新たな文脈で再考します。

■日時:2012年12月22日(土)13:30~19:00
■場所:立教大学新座キャンパス 6号館3階 N636教室(ロフト2)
   (住所:埼玉県新座市北野1-2-26)
■参加費:無料、申込不要
■定 員:178名
■プログラム

13:30-14:00 問題提起/宇野邦一

●第1部(司会:堀千晶)
14:00-14:30 報告/松本潤一郎:また消えるために――幾つもの召命
14:30-15:00 報告/江川隆男:器官なき身体と超越的感性について
15:00-15:30 質疑応答
15:30-15:45 休憩

●第2部(司会:松本潤一郎)
15:45-16:15 報告/廣瀬純:タイトル未定
16:15-16:45 報告/堀千晶:無知の砂漠――皮膚・補綴・ダンス
16:45-17:15 報告/佐々木中:ジル・ドゥルーズにおける身体と政治 ――その美的決定(ドグマティック)
17:15-17:45 質疑応答
17:45-18:00 休憩

●第3部(司会:宇野邦一)
18:00-19:00 質疑応答

■講師略歴:
廣瀬純 氏(龍谷大学経営学部経営学科准教授)
1971年生まれ。著書に「シネ・キャピタル」(洛北出版・2009年)「蜂起とともに愛がはじまる―思想/政治のための32章」(河出書房新社・2012年)、訳書に「未来派左翼」アントニオ・ネグリ著(NHKブックス・2008年)がある。

江川隆男 氏(哲学者、首都大学東京 都市教養学部助教)
1958年生まれ。著書に「存在と差異―ドゥルーズの超越論的経験論」(知泉書館・2003年)、「死の哲学」(河出書房新社・2005年)、訳書に「ニーチェと哲学 ジル・ドゥルーズ」(河出文庫・2008年)がある。2013年2月に新刊の出版予定。

佐々木中 氏(法政大学非常勤講師)
1973年生まれ。主な著作に「定本 夜戦と永遠」上・下(改訂増補 文庫版、河出書房新社・2011年)、「切りとれ、あの祈る手を」(河出書房新社・2010年)がある。

松本潤一郎 氏(立教大学兼任講師)
1974年生まれ。共著に「ドゥルーズ―生成変化のサブマリン(哲学の現代を読む2)」(白水社・2005年)、ドゥルーズ関連の寄稿論集に「ドゥルーズ/ガタリの現在」(平凡社・2008年)、「ドゥルーズ 千の文学」(せりか書房・2011年)等、訳著に「ドゥルーズと創造の哲学 この世界を抜け出て」ピーター・ホルワード著(青土社・2010年)等がある。

堀千晶 氏(早稲田大学非常勤講師)
1981年生まれ。共著に「ドゥルーズ キーワード89」(せりか書房・2008年)、「ドゥルーズ 千の文学」(せりか書房・2011年)がある。訳書「欺瞞について」セルジュ・マルジェル著(水声社)が近刊予定。

■司会:宇野邦一(立教大学心理芸術人文学研究所長、現代心理学部映像身体学科教授)
■主催:立教大学心理芸術人文学研究所
■共催:立教大学現代心理学部

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そういやさいきん、行ったシンポや発表会↓は全部アタリだったのだ!
「政治とアートとまちづくり エリック・ライル 堀田真紀子と対話する」「危機とコモンズ:フクシマ以後の予示的政治」「書くことのアナーキズム -歴史・蜂起・『通天閣』-」「世界文学におけるオムニフォンの諸相」
なんだろ、この遊び方。ぶちょうはこれをアカデミシャン・スタディーズと名付けてたな。
アカデミシャンではないので、興味本位で中途半端な知的好奇心で物見遊山で行けるので、愉しい趣味なんだなー


年末年始はもう少し本を読みたいね



おお、なんたるサイケデリア。

敬愛している某哲学研究者の方の勉強会で配られたテクストの断片。ドゥルーズ『意味の倫理学』「第22セリー磁器と火山」における、こんな私訳を読んだ切っ掛けに、いろいろとわかることが多かった。


Gilles Deleuze, Logique du sens (1969, p.189)

on ne peut pas renoncer à l’espoir que les effets de la drogue on de l’alcool(leur « révélation ») pourront être revécues et récupérés pour eux-mêmes à la surface du monde, indépendamment de l’usage des substances, si les techniques d’aliénation sociale qui déterminent celui-ci sont retournées en moyens d’exploration révolutionnaires. Burroughs écrit sur ce point d’étranges pages qui témoignent de cette recherche de la grande Santé, notre manière à nous d’être pieux : «Songez que tout ce que l’on peut atteindre par des voies chimiques est accessible par d’autres chemins…» Mitraillage de la surface pour transmuer le poignardement des corps, ô psychédélie.

〔ドラッグやアルコールのもたらす結果あるいは効果(それらによる「天啓」)をそれとして、世界の表面で、薬物の使用から独立したかたちで生き直す、取り戻すことができるはずだ。もし、薬物使用を産み出している社会的疎外の技術を革命的探索手段に転じることができるのであれば。そんな希望を捨てることが我々にはできない。バロウズはこの点について奇怪な文章を書いており、それは「大きい健康」のこうした探求、我々なりに敬虔であるための我々固有の方法を語るものとなっている。「化学的な方途で到達できるものはすべて、他の道からも接近可能である……。」身体における短刀による刺傷を、表面における機銃掃射へと突然変異させること。おお、なんたるサイケデリア。〕

Logique_du_sens

そもそもRLLは「サイケデリクス」と「革命」を同一の思想として読み替えるというミッションでもありまして、「意識変容」と「社会変革」を切り結ぶ「ありえない景色」のための思考実験だったりするのです。(たとえば時代的感性なり社会一般常識なり云われる集団精神状態こそが、意識変容の流行とも言い換えられる。ファシズムの熱狂やネオリベの鬱屈はバッドトリップそのままじゃないか?)その意味においてこの『意味の倫理学』の引用部分は、ドゥルーズが自分達を代弁をしてくれているとしか思えない一節です(おまけにバロウズまで援用してくれて!)。
しかし僕はこの部分を、このときまですっかり読み落としていました。そしてハッとしました、そんな意味だったなんて! これが名訳だったからすんなり分かったとも言えるでしょう。

サイケデリクスは、スピリチャルやニューサイエンスと何故か親和性が高く、現代思想とは遠いと思われがちですが、僕にとってはオルタードステイツは、言語論的展開を綴るポスト構造主義を内的体験として反芻することに他ならないわけです。実際の世界把握は言語を通してしか行われないという構造主義/ポスト構造主義の大前提は、バロウズが語った「言語は外部空間から飛来したウィルスである」というのと同意味であります。ラカン派精神分析の基本である「現実界・象徴界・想像界」三象限の説明では、我々は象徴界(言語)を媒介(梯子)にしてしか現実界(世界)を認識できないという。しかし希代の哲学者ドゥルーズはそこから漏れる逃走線、そしてある種の革命に、言語化以前の出来事と出会う希望を見いだしていた。
余談ですがラカン派は68年五月革命の折、その出来事に反動的に接し、D&Gはそこで出会うわけです。その反動こそがガタリをポストラカン主義者としてのアクティビストへ生成変化した切っ掛けともいえるでしょう。まさに世界の表面でガタリは生き直し取り戻すしたことでしょう、これこそ”かくめい”の効用/昂揚です。そうして付け加えるのならば、サマー・オブ・ラブもその意味で非常にD&G的な出来事であった! 二度目には言葉になってしまうことも、はじめての出来事は「ありえない景色」であり「天啓」です。またサイケデリクスは化学的にそれまでの言語の梯子を外します。ドゥルーズが執拗に英米文学を引くのも(ルイス・キャロル!)、ひとつにはサイケデリクス文学の系譜的な歴史があるからだと、思わざる得ません(実際には『フレンチ・セオリー』の「カウンター・カルチャー——フレンチ・セオリーとの失敗した出会い?」で書かれている通りだとしても)。
サイケデリアから現代思想、もしくは現代思想からサイケデリアへ、それ自体が革命になりえます。



酔っぱらいで、まったく語学もダメで哲学だって怪しいところですが、翻訳によってこんなにも、この「社会的疎外の技術」と「革命的探索手段」の関係が変わってしまうのか、下記の部分も読んでみるとわかります。


koizumi

G.ドゥルーズ『意味の倫理学』小泉義之(2007,上巻p280)

こんな希望を放棄することはできない。すなわち、ドラッグやアルコールの使用を決定している社会的疎外の技術を探検の革命的手段に転ずるなら、ドラッグやアルコールの効果(その「啓示」)を、物質の使用とは独立に、世界の表面で、そのまま再び生きて取り戻すことができるという希望を放棄することはできない。バロウズは、この点について異様な文章を書いているが、それは、〈大いなる健康〉の探求、われわれなりの敬虔のあり方を証している。「化学の道を通って到達できるものはすべて、別の道を通っても接近可能であると思い付け……」。身体の刺し傷を突然変異させるための表面への機銃掃射、おお、サイケデリア。


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ジル・ドゥルーズ『意味の倫理学』岡田弘/宇波彰(1987,p203)

薬もしくはアルコールの効果(それらの《啓示》)は、それらの物質の使用とは無関係に、世界の表層において、それ自体でふたたび体験され、回復されるだろうという希望を捨てることはできない。ただしその希望には、それらの物質を規定する社会的疎外の技術が、革命的探求の手段に向けられるという条件がある。バローズはこの問題について異様な文章を書いているが、それは大きな健康についてのこの探求、敬虔になるためのわれわれの方法を示している。《化学的方法で達成できることは、すべてほかの方法でも達成できるのだということを考えてみよ。……》身体を短刀で刺す代わりに、表層を機銃掃射する、おお、何という精神の快楽。



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