Wearable Ideas RLL

高円寺一揆の想い

また適当なこと書くよ。

六八年五月
 六八年五月は、容認されたあるいは期待された社会的諸形態を根底から揺るがせる祝祭のように、不意に訪れた幸福な出会いの中で、爆発的なコミュニケーションが、言いかえれば各人に階級や年齢、性や文化の相違をこえて、初対面の人と彼らがまさしく見なれた-未知の人であるがゆえにすでに仲のいい友人のようにして付き合うことができるような、そんな開域が、企ても謀議もなしに発現しうる(発現の通常の諸形態をはるかにこえて発現する)のだということをはっきりと示して見せた。

 「企てなしに」ということ。その実、無秩序な秩序や曖昧な専門化を装うあまたの「委員会」という形を通して実現されたものではあったが、「企てなしに」というこの点に、存続すべくも定着すべくも運命づけられてはいない捉えようのない比類ないある社会形態の、覚つかなくもあるが幸運に恵まれた特徴があったのである。「伝統的革命」とは逆に、権力を奪取してそれをもうひとつの権力に置き換えることや、バスティーユなり冬宮、エリゼ宮あるいは国会なりを占拠するといったさして重要でもない目標があったわけでもなく、また古い世界を転覆することがねらいだったのでもなく、各人を昂揚させ決起させることばの自由によって、友愛の中ですべての者に平等の権利を取り戻させ、あらゆる功利的関心の埒外で共に在ることの可能性をおのずから表出させることこそが重要だったのである。誰もが語るべきことを、時に書く(壁の上に)べきことをもっていた。では何を? それはたいして重要ではない。語るということが、語られるものにまさっていたのだ。詩が日常のものになっていた。抑制なしに現れるという意味での「自発的」なコミュニケーションは、闘争や討論、意見の対立があるにもかかわらず、透明で内在的な、コミュニケーションそれ自身とのコミュニケーションなのであり、そこでは計算をこととする知性よりも、ほとんど純粋といっていい(ともかく軽蔑も、高等さも低劣さもない)沸き立つ情熱が表明されていたのである——だからこそ権威は覆され、あるいはほとんど無視され、いかなるイデオロギーもそれを取り込んだり自分のものだと主張したりすることのできない、未だ嘗て生きられたことのなかった共産主義の一形態がここに出現したのだと、人びとは感じとることができたのだ。しかめっつらしい改革の試みなど存在せず、あるのはただ(それがために極めて異様な)無辜の現前だけだった。権力者たちの目にはそれが映らず、また彼らの分析の網にもかからなかったため、この自体はシアンリ〔大混乱〕、というような社会学的にみれば典型的な様ざまな表現で中傷されるほかなかった。だがそのような対応は彼ら自身の狼狽、すなわちもはや何の指令も出せずおのれ自身をも統御できなくなって、おのれの説明し難い破産を見るともなく眺めている司令部の狼狽を、グロテスクに上塗りするものにほかならなかった。

 無辜の現前、おのれの限界を蔑する「共同体の現前」(ルネ・シャール)、何ごとも排除しまいという姿勢、あるがままの存在意識、そして直接-普遍なものによって政治的である、この無辜の現前は、不可能なものを唯一の挑戦として掲げていたが、明確な政治的意志をもたず、公的諸制度が立ち上がるときにはその意のままに翻弄され、それに対する反抗はみずから禁じていた。阻止することも闘うこともその気になれば容易だったにちがいない敵対する示威行動を展開されるにまかせたのは、ほかならぬこの反対行動〔反動〕の不在である(ニーチェをその鼓吹者とみなすこともできただろう)。一切合切が受け容れられていた。敵を識別することもできず、敵というものの個別具体的なひとつの形態をも数えあげることもできないということ、それは運動を活気づけてもいたが、同時にそれを大詰めに向かって駆り立ててもいた。しかし大詰めというものの、出来事がいったん起こってしまったそのときから、決着をつける必要のあるものなど何もなかったのだ。それに出来事とはいうが、はたしてそれは起こっていたのだろうか。

『明かしえぬ共同体』モーリス・ブランショ




先日まで杉並区議会選挙活動に乗じて行なわれた『高円寺一揆』の、全く的外れな多くの批判はぜんぶ、上記ブランショの記す「共同体としての五月革命」で片付けることとする。「政治」音痴なのを自覚出来ないのは、踊れないでDJが下手だといってる様なもんだよ、だせぇ!

松本哉の言葉の多くは、すぐに政治哲学に翻訳して了解できるものばかりだ。お為ごかしはない、その意味で慎重かつ根源〈ラジカル〉的だある。「俺の自転車を返せ」とは、自由と個人所有への政治制限の根底批判である。どんな権限があっておめぇら、んなことできんだよ、不平等そのままじゃねぇか。「家賃をタダにしろ」だってそうだ、土地所有の根源に対する疑念は、家賃という商品の根底に領土を暴力で保有する国家マシーン批判が当然の前景がある(土地の区分の厳格化はそのまま帝国主義とパラレルな運動だ)。それらは突飛で大上段だから笑えるが、根源〈ラジカル〉には、人間の群(社会)のあり方が正しく面白く心地よくあって欲しいという、情動がある。共同体の正義を問うのが政治である。

フランスの哲学者ジャック・ランシエールのいうところの「政治」だ。普通に思われている「政治」は秩序の機構マシーン(警察や官僚や立法府やなんやかんやの力関係)統治で、それは「政治的なるもの」でしかない。しかし「政治的なるもの」を利用した強者富者による占有と、不可視であったほうがよい貧者(分け前をハブられたあぶれもの者)が生産される。そして市場経済の背後に暴力を伴った物の偏りがある(「ボッタクリ!」って資本主義の核心だよな)。そこから立ち現れる貧乏人(や諸々)が発生し、その主体化起こる。その正義を装う力関係の虚偽を正そうという動きこそが「政治」なのだ(ネグリなら「構成権力」かな)。群の分け前と秩序を巡って運動は続く。

「分け前なき者たちの分け前、つまり貧しい者という当事者ないし集団が存在するときに、政治が存在するのである」『不和あるいは了解なき了解—政治の哲学は可能か』ジャック・ランシエール

手前を非政治的主体(自称普通の市民って何だ?)として他者を政治的に非難することは出来ない。その意味で自分は、何に希望を、どんな人間の群(社会)に見いだすのか。選挙で当選してよくすることと、選挙に乗じてよくすることと、優劣の問題じゃないスタイルの問題だ。「政治的なるもの」そのものの選挙制度を脱構築し「政治」を注ぎ込む行為、「政治」とはその自らの存在を可視化する「騒ぎまくり、有象無象が居ることを知らしめて、ビビらせる祭」ことだ。そして「自治」が掲げられるが、そのままバタイユ/ナンシー/ブランショ/アガンベン/リンギスの「共同体」論へと接続する。「蕩尽」の「祭」を通して「共同体」が作られ「政(まつりごと)」として「貧者」の出現する「政治」が行なわれる。「祭」とは宴会でありパーティであり交歓である。それはアガンベンが書く「任意さ(何であっても構わないこと)」だけに基づく共同性を想起させる、有象無象の存在と交歓からなる祭の「共同体」が見える。「祭」をオーガナイズし、それにノルかソルか、それとも別に主催するのか、どう他人と楽しむのか。かんたんだろ?

自己の根源の偶然性から発する「何も共有していないことにおける共同体」の理論の系譜(ブランショやリンギス等々)は、その属性や所属する社会を脱構築した後に残る。安っぽいあれら本質主義や国籍や血統や性別や諸々から大きくはみ出た「友愛」からなる世界は、もしかしたらわりと簡単なのかもしれない。高円寺駅前には連日パンクス呑んだくれギャルばあちゃんガキおっさん外人車椅子当たり屋が混交していた。社会は宴会次第なのかもしれない。


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  • By intellipunk / Apr 23, 2007 8:53 pm

通人

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コスモする高円寺北中通りの風雅な街の人
熱かった一週間の祭をチルさせる桜散るアート


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  • By intellipunk / Apr 23, 2007 1:41 am

アナルコ・ゴスロリータ

静岡の古書店主から聞いた話。

静岡市立沓谷霊園にある大杉栄の墓に、9月16日の命日になると、ゴスロリの少女たちが集うという。

ある程度知的なゴスロリ少女たちのアイドルといえば、澁澤龍彦というのが定説なわけだが、最近の最先端ゴスロリっ娘の間では、どうやら大杉栄らしい。アナキズムの黒とゴスロリの黒との相性がいいとか、2ちゃんねる用語の人大杉って言葉による影響とか、さまざまな説があるようだが(ウソ)、とても奇妙な現象だ。まあ、でもこれで雨宮処凛の次の行き先がわかった。プレカリアートの次はアナキズムでしょ、きっと。

「美は乱丁にあり」
リストラされたあるアナキスト編集者の言葉。


  • HarpoBucho
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  • By harpobucho / Apr 20, 2007 3:56 am

個人的まとめ

昨夜に関しては、おいらはほとんどイルコモンズさんのブログで齟齬ないと感じます。
誰の云うこともムーブメントについては正しい解釈はないので、その中で体現して自分で感じたことを物語ればいい。そしてムーブメントから距離をとっているのなら黙っていることが正しい解釈だ。
いずれにせよ、自らの人生しか人は物語れないのだから、ムーブメントに物語を見いだせても、それはムーブメントの全てではない。ムーブメントとは断片ではない、複数の物語の混交なのだから。


とりあえず昨日のECDの姿は一生忘れそうにない、自分の物語の中では。

▼ECD “言うこと聞くよな奴らじゃないぞ” @高円寺駅前 2007.4.15
▼高円寺駅前大騒ぎ Day 1 (2007)



まずここからはじまった。
▼高円寺貧乏論説


予告というより予言だった動画
▼ECD×素人の乱


この事前イベントでのパフォーマンスもシンクロ率高し
▼ノンポリラジカル


昨夜のイメージを膨らませるための補足参考映像
▼nonsense jam session
▼infernal noise brigade!!!
▼infernal noise brigade, ny, rnc protests 2004
▼T.C.D.C.
▼WE ARE THE THREE (ONLY!)


昨夜に関連する情動をサポートする過去の映像
▼家賃廃止要求デモ!
▼2006/9/16 家賃をタダにしろ!中野→高円寺一揆!予告編
▼2006/9/16 Nakano-Koenji Anti-Rent Demonstration
▼クリスマス粉砕集会【Part1】



▼明日火曜日おれの個人的妄想、一切の真実はない。
http://www.youtube.com/watch?v=6cgu-z6GMNs
http://www.youtube.com/watch?v=5OITBGynwmY
http://www.youtube.com/watch?v=Q5WlFnXgWvs

▼明後日水曜日はコレ???
http://www.youtube.com/watch?v=Br9Dg9vu90c
http://www.youtube.com/watch?v=TW7SwZIxn-8

まぁ毎日高円寺駅前で交歓しに行こうじゃないの。




最近、生きていて良かったと思えることはあるかい?
自分の人生を愛せているのかい?
とにかく、おいらは昨夜はそう感じたのだよ。


  • Intellipunk
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  • By intellipunk / Apr 17, 2007 1:33 am

RLL35

高円寺一揆


アイデンティティを混ぜっ返せ

以前書いた左派右派テーゼ「楽しいのは左、安心すんのは右[欺瞞的な固定したアイデンティティで安心したがる(不安を避ける)のが右翼/自己を時間と空間の中の揺らぐ運動体として存在する態度が左翼]」を再提出しましょう。

松岡正剛の千夜千冊の左翼仕事
サイード『戦争とプロガパンダ』紹介。
[このアメリカとイスラエルの異常ともいえるほどに欺瞞的な同盟関係を、いったいどうすれば打ち破ることができるのか。むろんサイードは対抗軍事力や対抗テロリズムを持ち出すのではない。むしろもっと悲痛なものを持ち出した。戦争とプロパガンダに対してサイードが持ち出したもの、それは、「一つのアイデンティティ」によって「他のアイデンティティ」を決して押しのけないという大義によって成立する「バイナショナル・ステート」(二国民国家)というものだった。
 その提案がはたしてどのように有効なものなのか、サイードはそれを確かめる時をもてずに他界した。われわれはこのメッセージをどう受け取ればいいのだろうか。]



複数の自己規定、自己矛盾する複合的多義的多元的な自分。これがサヨクという態度である。


アイデンティティの話は、例えばカリブの、対白人帝国主義価値からの、被植民性である黒人純血性概念の「ネグリチュード」から/混血性概念の「クレオール」への視点の移動がわかりやすいか。
もしくは、ヘテロ/バイ/ゲイのセクシャルからのモノセクシャルからポリセクシャルへの移動。
国家においては、国民という概念と民族という概念の倒錯を指摘する国民国家批判、近代批判のポストモダン概念。

とまれ、保守の規定する伝統的固定的概念が、それ自体が非人格的な権力構造(マシーン)によって、恣意的に編纂された嘘っぱちな捏ち上げだってのは、フーコーが暴いたわけですね。右は非知的反知的であると。
例えば、日本の中世が百姓とサムライの黄ばんだ世界だったなんてことはなくて、もっと豊かな非常民漂泊民や無界アジールやサンカや蝦夷琉球だったりが広がっている振れたアイデンティティーがたくましく花開いてたってことも、民俗学として宮本常一や網野善彦や赤松啓介を知ると出てくるわけだ。日本というアイデンティティもそんないに磐石ではない、多くの共同幻想で生まれているわけだ。

文化人類学/民族学が西洋近代中心主義批判であるとイルコモンズさんに「文化人類学開放講座」で教えてもらった。つまりサイードのいうオリエンタリズム概念の類似は様々に存在している。
そういやサイードのあれらも、反本質主義のデリダの脱構築から発せられたもので、もともと哲学の命題だったと。世界は何であり自分は何なのか。実存主義から構造主義/ポスト構造主義へ。
そこから、先日に書いた「共同体」話につねがったりね。


そのまま土地やモノの私的所有制度から著作権概念へもつながる。ここが資本主義の根底のルールへの不信である。
階級概念もそこへつらなる、ベタに云うならプロレタリアートからマルチチュードへ。お前の持ち物って、とりあえずお前誰? お前は俺じゃないの?

それから純文学の物語批判の文学壊し(おいらは高橋源一郎は好きです爆)、舞台のブレヒトやべケット、美術ならデュシャンにウォホールが双璧、それらも基本的には混ぜっ返した振れた自分のDUB鏡。

そっからどう、スタイルウォーズしようか。何に救いを求めるのか。脱構築は正義とか云えるほど勤勉でもないけれど、サバルタンは語り得ないわけで、やっぱり最後は、自己観察参与という自分探し仲間探しがカルスタポスコロなわけだ。てめぇのトライバル・スタディーズですね。

暴力と戦争と近代と帝国主義と西洋白人価値観と資本主義は何重にもからまっている、実は同じひとつの運動である。僕らはそれに、叛/脱/非/を繰り返しながら自分の人生をかけて挑む、楽しむ、嗜む、笑う。



『高円寺一揆』第二弾!!
3/30(金) にあるぞ!!!
http://mixi.jp/view_event.pl?id=16540742&comment_count=2&comm_id=689660
先日第一弾の映像。
http://www.youtube.com/watch?v=BWND80YfrYE

サイードの訳者中野真紀子さんの新しいプロジェクト『デモクラシー・ナウ日本版』
http://dnjapan.info/


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  • By intellipunk / Mar 24, 2007 6:53 pm

ECDにRLLはシンクロしている?


ECDと音楽評論家の陣野俊史さんの対談がクラブキングのHPからポッドキャストできる。
http://www.clubking.com/contents/index_webdic.html
http://www.clubking.com/contents/114_special.html
http://phobos.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewPodcast?id=96519342&s=143462&i=14655000
http://phobos.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewPodcast?id=96519342&s=143462&i=14654998

いつもながらかなり緩いお洒落さん寄りの企画のなかで、ECD(とそれを用意する陣野)が、言葉のインフレの中で朴訥ながら的確な批評をしている。桑原茂一さんのチューニングだから、まだクラブキングの論調はお洒落エコだったりだたの実存主義だったりエコスピだったりヘタレないリアルポリティクス話だけど、その中でこのECDの言葉が届けられるのは画期的だと考える。

桑原さんのコメディーはRLL(というかおいら)もすごい影響されているけれど、クラブキングの体現する業界とお洒落さんの世界観の射程の狭さにちょっとした限界も感じていた(同様の限界はロフトグループの平野悠さんにも感じたりね)。けれど、こういったふうにECDが混ぜられて語ることに、少し可能性をみる。


一般の右傾化している言葉より自己表現ではない何かやりたいことをやるということの可能性について(おいらの前の日記のリンギズに支えられた脱自己表現としての共同体とシンクロする話)、そしてデヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』を挙げての新しいかくめい家たちの快楽や祝祭の自由を体現できた「目的もなく楽しみだけに集まること」の実践(そして権力の対応)サウンドデモやクリミナリジャスティスやただのパーティー、こそ泥資本主義の欲望の私有化から解放するパーティーをしよう!という「かくめい」の話、階級化からオリタナティブ・ライフスタイルの現状(T.A.Z.—一時的自律ゾーンそれこそHxCxライブハウスやRAW LIFEやヘビーシックゼロに象徴される自律して楽しむだけ!の下流ライフスタイルの希望)と経済が低いところで回る価値観、目の見える範囲のオーディエンスという手売りポトラッチ感覚の創作行為と閉鎖的狭い世界(オールドスクールのブロンクスのhiphop/バリスト安田講堂)の価値観の面白さ(誰でもアクセスできるロックフェスなんかにに奇跡はない)、保守右傾化している国(押しつけのナショナリズムなんて国側の危機感の象徴だ)の中で健康保険を払わない本人も知らないうちにアナキストが増えているという進行中のかくめいの話イージーライダーの最後のシーンはネットの中にしかいないんじゃない、給食費を払えない2007年のバンドマンの助け合う長屋生活(素人の乱的!!)



僕らRLLの「楽しい日常かくめい生活」の感覚とほとんど同じ価値観、まぁ体験もCOSMOですれ違っているから共有してるとは思うけれど、でも実際に話したことない彼らの口から同じことを考えたり想ったり行動してるのを確認できるのは嬉しいことだね。

RLLはネットラジオ素人の乱で、毎週日曜22時より「かくめい生活研究所」を同様の意図と想いを持って放送している。


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  • By intellipunk / Mar 19, 2007 6:51 pm

だみーText表示用(削除不可)

RLLだみー


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  • By ∞+∞=∞ / Mar 19, 2007 9:41 am

すべての「クズ共」のために

すべての「クズ共」のために

どこから来たかではない
なにができるかでもない

私たちと何も共有するもののない——
人種的つながりも、言語も、宗教も、経済的な利害関係もない——
人びとの死が、私たちと関係しているのではないか?

何かが一人の官能の共犯者から
別の共犯者へと伝わる。
何かが理解されたのである。
共犯者の間で使われるパスワードが
認識されたのだ。
あなたを同じ仲間の
一人の共犯者に仕立てる何かが
語られたのだ。
ケツァール鳥、野蛮人、原住民、
ゲリラ、遊牧民、モンゴル人、アステカ人、
スフィンクスの。
http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27028.html


授業で中学んときの英語に出会ったとき、シニフィアン(文字)/シニフィエ(概念)の関係の文化的恣意性に気がついて(嫌気がさして放棄!)、そっからアートの象徴主義(何をどう描いたら何が伝わるか、という視覚伝達言語の歴史学)の扉を開いたんだよね。つまり表現とは、誰か他人へ伝わることの実践であり研究でありその血肉化し体系化した記号論であり、コミュニケーション技法であると理解したのだ。元々アートの語源とはラテン語のars[技術]を指す言葉だったわけだし間違ってはいない。内実や実存との格闘があって、絵画の歴史ってのは巧く表現の技法と実存を腑分け出来がたい。人生の物語を人は好む、そっちの方が受けがいい、有名な作家はバックボーンが立っている。内実をどの様に伝えるかと、どの様な内実かを、ない交ぜにした批評をしてきたといっていい。全部わざとである。
グラフィックの歴史は、あえて現代美術をトレースする形で20世紀に進んできた、しかし大きなところが違う。これはおいらが現代美術作家を目指さないことの理由でもある。商業デザインの縛りであるシニフィエ「この商品は良いです、買ってください」と、グラフィックという容器の方のシニフィアン。しかし、そこから溢れ出る嘘のつけない作家としての言語がつい語ってしまう「この商品なんてどうでもいいです、それより私を見てください」という本当の内実。これがあるのが作家であり現代美術に拮抗している表現者であると、そこへ向かうべきだと。
よくしらないけどソシュール言語学以降の構造主義もその流れだし、シチュアショニストもそこが肝だね。で今やってるデザインやブランディングやアートディレクションもそうしたことと表裏にある。現代美術がだらしなく売れることと評価を混ぜっ返すいま、グラフィックデザインは徹底的にメタな視点から始まる。もっとも中心で資本主義と人間の対決がある、大抵は作家自身が自分のスペクタクルに溺れるのだけれど。

さて、そこから語るべき物語はありうるのだろうか、何を話せば良いのだろうか。僕は立ち尽くすのだ、そこまでして伝えなければならない自我を持ち合わせているのか、と。んまぁ、手に職はついているので、それだけの人、になれることも知っているのだが、それは許されないのだと。




今、アルフォンソ・リンギスとジャン=リュック・ナンシーとモーリス・ブランショの「共同体」の言葉を拾い集め、少し励まされている(だいたいきっかけは月曜社の小林さんの書いた人文書紹介の文章だったりするのだけれど)。閉じた主体で悩まされるのではないよ、と。(そして60年代の平岡正明の自然発生性ソヴィエト論、暴動論(反前衛党)と“場”への視線等はパラレルである)
ブランショの「友愛」概念やだったりアガンベンの短調マイナーな香りのする存在論だったり、最近は「人文」とされ「哲学」と思われない彼らの言葉から哲学を当然ながら接種し人生を生きる。自分の人生を愛せ。人々と自分のノイズを奏でていくのだ、アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』から無限に残響する生きること感じること、現象学・ソシュール言語学・ポストコロニアリズム・ポスト構造主義が解け合った、旅としか云えない人生を、「共同体をもたない人々の共同体、否定的共同体」として進む道をくれる。希望である。

そっからは反撃だ。コミュニズムの再定礎化というのか、経済でも権力でもない何かアナーキーなモノ群れへの信頼。経済を返す刀、バタイユ(普遍経済学!)とカイヨワを使い「遊び」の根源的欲望「呪われた部分」であり、素人の乱的に「まじめにふざける」ことで批評する。権力もブルデュー/フーコー/ バトラーなんかで軽くいなしておいて、あとは相手にしないで徹底的に共同体を見つめる、自分たちの勝手に作ったかくめい後の世界で「遊びを馬鹿にしちゃいっけないよ(松本哉)」と営む。不信を前提にした公正もアイロニーも効用も糞だデストロイ、煙たいブリストルじゃないとわからんか。


「強力な感情とは、活動する感受性が、こちらにやってくるものを、笑い、涙、祝福、そして呪いで迎えるために使うものである。呪いと涙は、それ自体が力である。笑いと涙は風景を刺激し、波立たせ、祝福と呪いは世界の道のりを高貴なものにし、また混乱させる。笑いは涙から独立しており、涙に先行し、祝福は呪いに先行する。」アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』
だからRLLの姿勢はラフターでありリスペクトなのである。


この言葉は田崎さんの論から大きく影響を受けたことを記す。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/omth2/biblio/democrat.htm


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  • By intellipunk / Mar 15, 2007 6:14 pm

グッとくる左翼

朝日新聞のオピニオン誌『論座』2007年04月号「特集:グッとくる左翼」にRLLが掲載されました。

特集冒頭は、雨宮処凛+論座編集部で渾身の「素人の乱」上げっ! そいで、その後の毛利嘉孝「ストリートが左翼を取り返す」でRLLのことが「素人の乱」とともに紹介されています。
昨年は「remix」掲載なりましたが、今度は論壇誌です!

intellipunk


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アカイ アカイ アサヒ アサヒ 朝日は赤くなければ朝日じゃない
あれ?赤くないぞ。おかしいなあ〜青リンゴだ!

朝日新聞のオピニオン誌『論座』「ストリートが左翼を取り返す」という題でRLLのことが素人の乱とともに紹介されています。職場で親父ギャグを連発してスベりまくったり、面倒くさいからジーンズメイトで服を買っちゃうような人間が左翼に「笑い」と「オシャレ」を導入しようと企んでるって話(あれ?違うかも?)。「笑い」も「オシャレ」も実は同じ「洒落」な感覚なんですよね。すいません。伊達と酔狂だけでやってます。

ある筋から入手した情報だと、ハーポ部長ほか2名の名前も登場予定だったのに、編集部からこれでは人の名前か何かわからない(ちなみに二人の名前はインテリパンク、∞+∞=∞、何だこれゃ)と言われ、ボクらの名前は消されてしまったそうです。朝日新聞に人間を否定されました。

HarpoBucho


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  • By intellipunk / Mar 03, 2007 12:05 pm

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